○ 君の名はよしこ ○


 知っているつもりでも、実は知らない事がある。
 しかしそんな事は、普通は全く知らなくても支障がない。空気中の酸素濃度を知らなくても人間は生きていけるし、家の正確な緯度と経度を知らなくても日々の生活に支障はない。
 とはいえ気になるのは仕方のない事。昼休みの食堂でゆのが口にしたのは、つまりはこんな基本的な事だった。
 

「ところで、大家さんの名前って何でしたっけ?」
「ゆのさんは知らなかったっけ? えーと……」
 ヒロは宙を見詰め、そして一言。
「あれ?」
「老化現象ですかヒロさ――ぐはぁ」
 ヒロの容赦ない攻撃に、なぜか宮子は一撃で倒れる。ゆのはこっそり見ない振りをして、椅子の上で女の子らしくない胡坐をかいている沙英に話を回した。今はズボンをはいているので中は見えないが、制服姿の時に胡坐をかくのはやめてほしいとゆのは思っていたりもする。
 まあ、それはさておき、ゆのが思い付いたのは一つの漢字の連なり――って、思い出すんじゃなくて思い付いてどーする。
「大家さんですから、大屋(おおや)さんなんてどうでしょう沙英さん?」
(捏造してどーするのよゆのさん!?)
 立ち位置が次女っぽいゆのの大ボケに、お母さん役が定着しているヒロは心の中で泣きそうになる。話が致命的に関係ない方面に飛んでいるゆのに頭を痛めるヒロの心の声が通じたわけではないと思うが、沙英も同じ考えでゆのに答えを返した。
「まあそーいう名字もあるけど、そこまで安直な展開はないんじゃない?」
「しくしくしくしくしくしくしく」
 にべもなく一発で否定され、ゆのは部屋の隅を向いていじけながら床をつつく。そのままお父さんに放置されてしまった次女を慰めながら、お母さんは話を転換させようと、次の話題を長女(もしくはペット)に振った。
「そういえば、校長先生の名前も記憶にないわ」
 校長先生。やたらと長い頭が印象的で、ふるふる震えながら吉野屋先生にお仕置きしている姿しか頭に浮かばないが、みんなの見ていない所で普通に仕事もしているはずだし、授業も一部受け持っている。しかし住んでいる所は生徒の誰も知らず(たぶん)、その過去については教職員もはっきりとした事は話してくれない(ようだ)。実は美術界の大御所だとか、お公家さんの家の出身だとか、戦前の非合法活動に関わり検挙を逃れるために偽名を名乗っているとか、様々な陸上競技の日本記録保持者だったとか、河豚の調理師免許を持っているとか、日本人ではなくポーランド人だとか、まああれこれ言われているわけで、吉野屋先生に匹敵するどころか凌駕する噂が流れているが、その実態は誰も知らない(らしい)。
「何だろね。吉野屋先生の美術のテストでクラス全員が『モアイ』って書いたけど×だったし……」
(どーいうクラスだおいっ! ていうか何の問題出してるんだよっしー!)
 と思う沙英だが、自分も校長先生の名前(と、吉野屋先生の下の名前)を知らない事はおくびにも出さずにいた。
 そんなみんなの様子を見ながら、ゆのが指を立てて言うには──、
「校長先生だから……校長先生(あぜなが・さきお)?」
 その、ある意味斬新な意見を耳にして(いや、とりあえず「ある意味」と付ければオブラートに包めると考えているわけではないが)、一同は往年の名番組のコントのような勢いでのけぞり倒れた。しかも宮子はゴミ箱で後頭部をしたたかに打ちつけ、痛さにのた打ち回りながらヒロに慰められている始末。
 衝撃から立ち直った沙英が身を起こしながら、頭を振って眩暈を振り払う。
「な、何なのさその素っ頓狂な名前……」
「いや、この前出掛けた先の駅前のパチンコ屋さんで、『店長』って書いた名札を付けてたおじさんが、『みせなが主任〜』って呼ばれて、その相手の人を『てんちょう』って呼んでいたんですよね」
「あるのね……そんな漫画の中にしかないような名字って」
 ヒロも身を起こして苦笑し、高校生なのに下手をすると小学生が無理してコスプレをしているようにしか見えないゆのの制服姿を見ていた。
(ぽけぽけな所が可愛いんだから、ゆのさんは)
 などと思いながら宮子に視線を戻すと――宮子はヒロの胸に自分の頬が当たるのか、いっちょ前に顔を赤らめたりしている。宮子の胸もヒロに触れているのだが、明白にそちらの方が大きいくせに。
(宮ちゃんは早熟なのかしら。それとも子供っぽい?)
 ちょっぴり悔しさを感じたりしながらも、ヒロはお母さん気分と飼い主気分のどっちでもありそうな気分でいると――宮子と目が合う。
「いやーヒロさん、その店長の女の子が、ゆのっちとどっこいどっこいの背の低さで。向こうは成人してるんだろうけどそうは思えない外見で、一方ゆのっちは、大人になっても目がピュア過ぎて補導されそうだし」
「宮ちゃんっっ!!」
 ゆのは叫ぶが宮子は気にせず、妹をネタでいじる姉のように満悦気分を味わっていた。そんな二人をヒロと沙英は、お父さんとお母さんのように優しく見守る。
 そして、そんな四人の姿をジェラシーを籠めて眺める吉野屋先生と夏目さん、そんな二人を苦笑しながら眺める中山さんと真実ちゃん、その全体を興味深げに観察する藤堂さんと桑原先生に、吉野屋先生を怖い目で凝視する校長先生も。
 もちろん窓の外には、緑の怪生物と謎のナスビ、それに無意味に泣き濡れるウサギがそこにいた。
 

 こうして謎は謎のまま。
 ちなみに2巻の文化祭の展示シーンで、ゆのの絵の下に名札が張ってあったが、あいにく名字は判読不能で、2〜3文字という事しか分からない。
「筆者によると、ぱっと見には『日生(ひなせ)』って字に見えたってゆーんだけどね。ひだまりっぽい名字かな?」
(終)


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