○ 坊主が野原でサバを蒸している ○


 人皇百二十六代平成帝の御世、甲斐国に絵の匠を志す娘ありけり。名をゆのと称す。あづまの都に程近きやまぶきの学寮に入るを得、学寮の目前なる緑郷浅葱村にありけるひだまり荘に移り住めり。
 そこに大きし鉢を携へ訪れたる者あり。その女、ゆのを見、「本日は良き日和に侍り。我は隣に住まひし宮子と申す。蕎麦切りは未だ供せんや」と言ひけり。ゆのが振舞ひし蕎麦切りをことごとく平らげ言ふには、「今ほどは坂東で常に用ゐる汁で頂きしが、饂飩振舞ふ事あらば畿内が汁を求めん」とぞ。移り住むにあたり近在の者に蕎麦切りを振舞ふはあづまの都の常なれど、饂飩振舞ふは未だ聞ける事なし。
 或いは先達なるやとゆのは思ひたれど、宮子の言ふには、「我は一月ほど先立ちて訪れたり。されど先達にはあらずして同輩なり」と。ゆのの「宜しく頼まん宮子殿」と言ふに、「宮でよし」と返せども、続けざまに「もしくはよしこと侍らん」となん言ひける。なを、茄子殿の言へらくは、よしことは仏蘭西国の人ならんと。
 

「う〜〜〜〜ん……いきなり謎のナスビさんを出すのは脚色しすぎだったかも……」
 ひだまり荘202号室、部屋の主以外には何なのかまるでさっぱり分からない材料と工作物が散らかる部屋で、宮子は中古品のパソコン(大家の伝手を使った借り物)を前にして、あれこれと頭をひねっていた。液晶ディスプレイの上に表示されているのは、何やら途切れ途切れに打ち込まれた文章。どうやら書きかけの小説のようだが、それにしては文体が極端に古臭い。
「ん〜〜〜〜…………」
 などと唸っても良いアイデアが出るわけもなく、べたりと机の天端板に頭の重量を預けながら、パソコンの不快な排熱音から逃れようともぞもぞしている。
 この部屋は大家が自分でリフォームした結果雨漏りがするわ床に生石灰の乾燥剤があるわという危険空間になっているのに、部屋の主も作品を山積みにするわ廃品回収した画材をそこら中に散らかすわするので、ひだまり荘の同居者達(アパートだから厳密には違うが)の部屋とは大違いの、まるでアトリエか廃品倉庫のような状態になっていた。
 そこに扉を叩く音が控え目に響き、家でも学校でも聞き慣れた声が宮子の呻きを中断させる。
「宮ちゃーん♪」
 声の主はゆの。隣の部屋の住人であり、学校でも中山さんや真実ちゃんと並ぶ仲良しである。背が小さく、可愛らしく、声や挙動に純粋さがあふれ、そして天然ボケが入った(そこは宮子も他人の事は言えないが)ゆのを、宮子は妹のように可愛がっている。
 当然の如く宮子は、振り向きもせずに友人を自室に迎え入れた。
「ゆのっち? どぞどぞー」
「じゃ、入るねー」
 鍵の掛かっていない扉を開けて、促されるまま中に入るゆのは、珍しく巨大な作業机の前に座っている宮子を目にする。ちなみに普段の宮子は、床に寝転がるか部屋の真ん中で座っているかしている。さもなければ、変なポーズを取っているか延々と鼻歌を歌っているかだ。作業机を使う時も、いつもは立ちながらあちこち動き回るため、座ってじっと作業をしている事はあまりない。
「あれ宮ちゃん、なにか悩んでるの?」
「まあ、そんなトコっ」
 ゆのに向き直った宮子は大仰にぱたぱた手を振り、軽く肩をすくめてみせた。
「いやー、古文の時間に『擬古文を作る』って宿題が出てたでしょ? とりあえず私とゆのっちのなれそめを脚色してお茶を濁そうと思って、パソコン立ち上げてみたんだけど、これが難しいのなんのって」
「な、なれそめって……」
 穏やかでない言葉遣いはいつもの事だが、今回のそれはゆのには刺激的過ぎたようで、途端に頭がぐるぐると回り始める。
(な、なれそめって、ゴールインしたカップルに使う言葉だよね?)
 あらぬ妄想――具体的には、ウェディングドレス姿の自分とタキシード姿の宮子が腕を組んでいる図――で耳まで真っ赤なゆの。それを自分が原因とはつゆ知らず不思議そうに眺めていた宮子だったが、眺めていても埒が明かないので話を進める……単にゆのを眺めるのに飽きただけかもしれないが。
「にしてもゆのっち、よく私が悩んでいるって分かったね?」
「だって宮ちゃん、いつも歌ってるのに、さっきは唸ってばかりだったもん」
 ほぼ確実に無意識で宮子が話題をそらしてくれたおかげで、ゆのの妄想は停止する。宮子は椅子に反対向きに跨って(ズボンをはいているので背もたれには引っかからない)、いつも通りの陽気な笑顔を見せてくれ――、
 そして宮子は、再びゆのの妄想を起動させる。
「あはは、以心伝心ってやつ? まるで恋人みたいだなぁ」
(こいびと〜〜!?)
 また妄想の世界へ一直線に落ちかけたゆのだったが、慌てて脳内の妄想を振り払う。そして話を本題に引き戻そうと、自分も大きく身体を振りかぶった。
「て、提出は二週間後なんだから、とりあえずは別の事をやっちゃえば?」
「と言われても、美術の課題は全部出したし、歴史の宿題もやったし、かといって創作にいそしむにもカロリーが足りないんだよねぇ」
 ぐー。
「あ」
「宮ちゃん……ちゃんとご飯食べてる?」
 ゆのがぺちぺちと宮子のお腹を撫でると、案の定、引き締まったお腹は明らかにいつもより引っ込んでいた。それもちょっぴり危険な水準で。宮子は家が裕福ではないとはいえそれなりに仕送りはあるはずなのに、ついあれこれと妙なモノを買い込むため、ほぼ常に絶賛金欠状態。まあ食べる量も多く、ご飯を毎回丼でおかわりするから、食費自体もゆのからのたかり――いや、おごりを引いても結構かさんでいるはずなのだが。
「いやー、画材と資料を買い過ぎて財布はすっからかん。……というのは大袈裟だけど、いざという時のお金は取っておきたいからねー。さすがにゆのっちやヒロさんにご飯を頂くのはともかく、借金までするわけにはいかないしー」
「……ご飯はいいんだ?」
 ぐきゅるるぐごー。
「ああ……胃酸過多で吐き気の上に眩暈でおかーさんの幻が〜」
「わわわっ!?」
 うなだれる宮子に慌てて駆け寄り、ゆさゆさと揺さぶるゆの。本気で心配して身体を支えると、こんな状況でも宮子はネタを振ってきた。
「……ゆの、いつも済まないねぇ」
「??」
 元ネタを知らないゆのが、きょとんとした目で宮子を眺める。しばらく互いに固まってから、じれた宮子がネタ明かし。
「ゆのっち〜、そこは『それは言わない約束でしょ』って返さないと〜」
「あ、あれかっ」
 そこでようやくゆのは、宮子の言いたい事に気付く。
 裏長屋の隅で、老母とその娘がかいがいしく過ごす情景。ケチな大家に立ち退きを迫られるが、人情味溢れる主人公が母と娘の苦難を救う。
 ……この手であれこれをごまかされてきたゆのだったが、まあ今回もごまかされてあげようと思った。
「分かったから宮ちゃん、ご飯作ってあげるから一緒に食べよ?」
「ありがとゆのっちー。ご飯作ってくれる人はいつでも募集中だよー?」
 心の底から笑みを見せ、宮子は万歳をして喜んだ。この天真爛漫な笑顔に弱いゆのは、まるで宮子の姉か飼い主にでもなったような気分になってしまう。
 そんな複雑な気持ちを小さな胸に秘めながら、ゆのはご飯を炊飯器から取り出して鍋に空けた。
 

「そういえば宮ちゃん、さっき言ってた台詞……」
「『ご飯作ってくれる人はいつでも募集中』ってやつ?」
 ゆのがよそった雑炊にむしゃぶりつきながら、宮子は器用に言葉を返す。ゆのは小さく頷いて、身長差の分だけ上目遣いになり、色が薄い宮子の瞳をまじまじと眺めた。
「そうそう。確か沙英さんとヒロさんを見て、『私と宮ちゃんもいつかあんな風になれるかなぁ』と言った時に、宮ちゃんがそんな台詞を返してたよね?」
「うん。ゆのっちにご飯を作ってもらうのは嬉しいけど、夫婦になるとゆのっちのご両親に顔向けが出来ないからねー」
 ぶぱ。
 ゆのは飲んでいたお茶を吐きかけ、むせながら三度目の妄想の泥沼の縁でのたうった。
「なななななななな、なんでそーなるのっ!? ままままさか宮ちゃんってそーいう趣味が!?」
「えー? だって沙英さんとヒロさんも、どこからどー見ても熟年夫婦じゃない。ゆのだって沙英さんがヒロさんを押し倒してるとこを見たってゆーし」
「ええええええ!?」
 危険極まる発言をした事などまるで意識していない宮子は、怪訝そうにゆのを眺めている。その間もゆのは想像力を暴走させて、百合の関係になってしまう自分と宮子をひたすら妄想し続けていた。
 ばくばく脈動する心臓を抑えられないゆのは、お目々ぐるぐるになりながら、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせる。
(だとすると私がちっちゃいから女役で背の高い宮ちゃんが男役……あああでも宮ちゃんは沙英さんと違って胸が大きいから〜〜??)
「ゆのー? ゆのっちー?」
 

「さて気分転換のお題だけど」
「あああああ…………へ?」
 熱暴走をしていたゆのが、宮子の一言で復帰する。時計を見ると、妄想前からもう十分以上も過ぎていた事が分かり、ゆのは耳まで赤くしてうつむいてしまった。
「ん?」
(この癖、なんとかしなきゃなぁ。そーしないと宮ちゃんとお話しする度に困っちゃうよぉ)
 どこぞの妄想シスター見習いよりはましとはいえ、そんな低レベルの比較は気休めにもならない。
 そんなゆのの心の葛藤を知らない(少なくとも態度の上では)宮子は、何やら景気付けのようなポーズを取ってみせる。
「『坊主が野原でサバを蒸す』。沙英さんに『お前が書け』と言われた以上、ここは身共が責任取って書かねば!」
「だから宮ちゃん……『拙僧』の時も疑問に思ったけど、その一人称は一体なーに?」
 ゆのが唖然としている間に、宮子は机に飛び付いて、紙と鉛筆を手に取り――、
 かりかりかり。
 かりかりかり。
 しゃーしゃーかりかり。
 ごしごしごしごしごし。
 しゃーしゃーかりかりかりかりかり。
「何だか明らかに……小説書いてるんじゃない音がするんだけど……。そもそもパソコンなら鉛筆の音がするわけないし……」
 ゆのが戸惑う間にも、宮子の手は全く休まない。
 そして何分かが経過して。
「できたー!」
「どれどれ?」
 と、ゆのが眺め込んだ先には……。
「絵……?」
「そっ。やっぱり美術科の学生としては、美術で表現するのが基本だもんね。できれば立体表現もしたかったんだけど、あいにくそんな材料は切らしてるし」
「普段は用意してるんだ……」
 部屋の中を見回すと、木材やら粘土やら石やらがこの前よりも減っていて、代わりに作品が増えている。宮子が三年間でどれだけの創作意欲を満たすのかと考えただけで、部屋の将来をゆのは非常に不安に感じた。
(作品の重みで、床が抜けちゃわなければいいけど……いくつかは確実に物置き送りかなぁ)
「破片を掃除するのがめんどくさかったら、ゆのっちもココで作業やってもいーよ。さてと」
 宮子の描いたものは木炭画で、画面一杯に地平線まで広がる野原の中に上がる一筋の煙と蒸気、そして脱ぎ捨てられた袈裟。絵の構成はどことなく水墨画に似ていて、宮子の絵にしては伝統のようなものを感じさせた。
 そんな絵を眺めて、ゆのは思わず口を開く。
「『かく』は『かく』でも字が違うよ、宮ちゃん」
「第一印象がそれ〜? ひどいやゆのっち〜」
「よしよし。合格点あげるから泣かないでね?」
 ゆのの手を取ろうとする宮子の木炭まみれの手を、ゆのはタオルで受け止めた。そのまま宮子を流しに連行して、手を洗わせる。流しには予想通り普通の石鹸しかなかったため、塊を宮子の手の中に移してあげて。
 そんなゆのの様子を見ながら、ついつい宮子は苦笑してしまう。
(……ゆのはこの辺の自覚がないけど、傍目には誤解受けちゃうよね〜)
 常々邪推している先輩達の関係をつい思い出し、もし自分とゆのもそこまで親しければ……と、淡い妄想が心をよぎる。
(そして二人は肌を重ね──いや、これ以上進むのはやめとこ)
 宮子が自制した時には既に手洗いは終わり、ゆのはそのまま宮子の両手を拭いていた。
「ねえ宮ちゃん」
「んー?」
 宮子はゆのに両手を委ねたまま、指の股を丁寧に拭われる感触を楽しみながら声を返す。
「あの絵だけど、なんで袈裟が脱ぎ捨ててあるの?」
「生臭物がダメなお坊さんが鯖を蒸すというのは、還俗する覚悟じゃないかなーって思ったんだよね。それで袈裟を描いて、お坊さんがお坊さんを辞めた事を暗示する仕組みになってるわけ。北宋の徽宗の時代の宮廷だとこの手の間接表現がもてはやされたけど、下手すると誰にも分からなくなるから加減が必要なのだー」
(凄っ。いつも思うけど、どこでそんな知識を身に付けるんだろ?)
 まあ図書館とかだと思うが。夜逃げ経験があるような家で、大量の本を抱え込む事はできないだろうし、今のところひだまり荘でインターネット接続できる人は誰もいないから。
「でも確か、東南アジアだとお肉食べてもいいんだよね。托鉢でくれる物は有難く頂かないとダメだから」
「微妙なトリビア知っていますなぁ、ゆのっちは。んで実は、さらにこーいうのも」
 宮子が取り出したのは、和紙に黒々と文字を書き込んだもの。かなり癖のある書体は極めて読み辛いが、それでも辛うじてゆのにも読める。もちろん書いてあるのは例の文句なので推測しやすいといった事もあるのだけれど。
「……うん。確かに『書』いてるね」
「はっはっは……あれ、誰か上がってくるよ?」
 耳聡い宮子は、外の小さな音をゆのより先に感じ取り、開けに行……ったりはしない。鍵がかかっていないからなのだが、
「この足音の重……いや安定した感じ、ヒロさんだな?」
「……本人に聞かれると殴られるよ?」
 と言いながらも半信半疑なゆのだったが、宮子の神業的聴覚は確かで、すぐ後に足音の主の声が聞こえる。
「ゆのさん、いる〜?」
「はいはい。開けまーす♪」
 扉を開けると、ふかふかピンクのお姉さんことヒロさんがいた。ちなみにこの髪、染めているのではないらしい。
「宮ちゃん。ゆのさんと一緒にいたのね」
「ヒロさん?」
 二人の一つ上の先輩、というかイメージはすっかりお母さんのヒロが、新しい雑誌を抱えていた。『月刊きらら』増刊号の表紙に、紛れもない橘文先生=ヒロの同級生の沙英の名前がある。
「うふふ。今回は特に宮ちゃんに見せたくて」
「私に?」
 表紙を指すヒロの指を宮子が追うと、そこには作品と作者の名前が記してあった。
 

  坊主が野原でサバを蒸す 橘文
 

 ゆのと宮子は作品のタイトルと著者のペンネーム――言わずと知れた沙英のペンネーム――を何度も見比べて――、
「うぬ!? 私の案を盗作するなんて許せませんぞ沙英さん!」
 宮子は『月刊きらら』を握り締め、大仰に叫びながら大袈裟な仕草で怒りを露わにするポーズを取ってみた。もちろん、本気で怒っているわけはない。
「盗作じゃないでしょ。そもそも宮ちゃん、沙英さんのためにその案を作ったんだし」
「『お前が書け。全三巻で』ってつっぱねたくせに、大人ってホントずるいですなぁ」
「すねないの宮ちゃん。……ところでこの絵、同じテーマで描いてたの?」
 ヒロは宮子に、先輩というより母親のように接している。宮子もまるでお母さんに対するように、気楽な感じで答える辺り、これでよく寝ぼけて「お母さん」と呼ばないものだとゆのは思っていた。「むしろ宮ちゃんなら沙英さんをお父さんと」なんて考えてしまったゆのは、必死で自分の脳裏からその発想を振り払う――でないと自分が沙英を「お父さん」と呼びそうで。
「うん。ちょっと気分転換にー」
(転換……ああぁ、性転換した沙英さんを想像しちゃうなんてダメだよ私〜!)
 何割かは宮子のせいなので、そんなにゆのが気に病む必要はないと思うが。そもそもうめ先生の初期設定では、担当の人に「それだけはちょっと」と言われるまで、ヒロさんが「実は男性」だったんだし。
 ともあれゆのは、『月刊きらら』を自分でも手に取り、「坊主が野原でサバを蒸す」を読んでみる。さすがはプロだけあって文体の構成も細部の描写も行き届いていて、あの無茶なプロットでよくここまで作り上げたものだと、変な感想が浮かんでいた。

 
 ――ある日、私は短編小説の筋書きを考えるため、書斎にこもって頭を悩ませていた。

 
「誇大表現だよね。ワンルームに住んでるのに」
「この主人公は沙英さんそのものじゃないんだからさ……実体験に基づいてると無茶な主張をしてるからって揚げ足取りはよそうよぉ」
「……ゆのさんの言葉を聞いたら泣くわね沙英」

 
 ――後輩は紙の束を手にして、「適当に引いて話を作ればよい」などと無茶を言う。私は「そんな安易に作れるわけはない」と言ったが、後輩は聞く耳を持たず、四枚の紙を山から抜き出した。
 「坊主が」「野原で」「鯖を」「蒸す」。
 思わず私は「お前が書け」と言い放ち、そのまま書き物机へと向かった。

 
「……あの時のまま?」
「いいえ、この少し後で話の舞台が、主人公の小説の中に変わるわ」
 

 ――わたくしはその時、丸々と肥えた鯖を手にして、海辺を歩いておりました。
 右手に峨々と聳える山、左手に蒼浪が洗う浜、この二つに挟まれた踏み分け道には人影はわたくしただ一人の孤影のみで、朝方に漁(すなど)る男どもを見てから、僧にも俗人にも男にも女にも出会うてはおりませんでした。

 
「おおう、坊主登場っ!」
「登場しただけでここまで歓声を上げられるお坊さんって、小説の中でも珍しいと思う……」

 
 ――このまま空しく鯖を抱えていても良いものか。そのような疑問がわたくしには浮かびました。
 鯖は傷みやすく、数刻置けば速やかに腐れ果てます。男どもは食物を朝餉(あさげ)しか持ち運んでおらず、食を乞うても生臭物しか差し出す事が叶わなかったのです。

 
「食べるーっ!」
「いやだから、お坊さんが食べちゃダメだってば」

 
 ――釈迦如来が最後に食を乞うた物は猪(しし)であったと言い、また小乗の教えには、僧が殺さず、殺すを見る事なく、僧のために殺されしものでもない、三種の浄肉を食する事を許していた事を思い出しました。
 しかし本朝の習いでは、時衆の遊行するやからか、一向に弥陀を頼む非僧非俗の者ども、あるいは山伏にもあらざる、戒を保つべき僧においては、このような魚、鳥獣、虫のたぐいを喰らう事は、戒に深く背くものです。また別の伝では猪の好む菌(くさびら)であったとも聞きますため、やはり釈尊に背く事はなるまいと、たとえ歯を打ち割られようと口を開けるまじと、諸仏諸天に誓おうといたします。

 
「ふんふん。よく調べてるねー沙英さん。描写からすると設定は、恐らく鎌倉時代の後期から室町時代、このお坊さんは少なくとも、時宗や浄土真宗のお坊さんじゃないね」
「そ、そうだったの? 宮ちゃんも頭いいと思ってたけど、やっぱり知識広いのね」

 
 ――しかし、殺生を犯したのは、わたくしではなくあの男どもです。もしわたくしが空しく鯖を腐らせれば、遠からずわたくしは飢(かつ)えて倒れ、私の屍と腐りたる鯖が野の狼や浜辺の蟹を満たす事はあろうとも、それ以上の者の命を繋ぐ事は、そして男どもの善根となる事はもはやないでしょう。
 わたくしが鯖を調理すれば、今のままより少しなりとも保つ事が可なると考え、わたくしは焚き付けを集める事としました。鯖を道先で精進の食と取り換えるにせよ施すにせよ、その方が良き手立てであるはずです。

 
「じゅるじゅる」
「この後は、鯖の蒸し焼きの細かい描写ね。でも編集さんもお料理詳しくないのかしら? 蒸し焼きにはもう少し火力も――」
「あ、あのっ、ちょっと飛ばしてクライマックス行きますね?」

 
 ――わたくしは蒸し上がった鯖に歯を立てて、薄く潮の味を帯びた、脂のしたたる肉を、あたかも餓鬼のように噛み切り、そして咀嚼して喉へと流し込んでいました。
 そのような自らに気付いたわたくしは、因果の恐ろしさに、足元が金輪まで崩れ落ちるものかと怯えます。

 
「だったら、最初から貰わなきゃいいんじゃ」
「それは酷よ。お母さんだって緑市でも手に入るっていうのに帰省するといろいろと……」

 
 ――釈尊――いや、悉陀太子が苦行の末に倒れた時、村娘が施したのは乳粥でした。今のわたくしには乳粥に等しき、程良く蒸し上がりたる鯖を手放す事は叶わず、無心にひたすら鯖を噛み切り、喰いちぎり、舐めるようにこそげ取り、貪り尽くしていました。
 腹が満たされると、耐え切れぬほどの絶望感は失せて、わたくしは鯖の骨の一つ一つを細かく折り、せめて浜辺に住まう有情に施さんと手を動かします。大乗の教えは衆生を救う事にこそあり。わが身一つの涅槃に執着するは仏の救いを失いたるものならば、せめて破戒無慚のわたくしであれど、生きつつ一切への供養をなさんと。

 
「あ、スジャータの話は聞いた事あります。でもお坊さん、こんなにお腹がすいていたなんて気の毒ですね」
「文体が少し荒削りかしら。沙英ったら徹夜すると文章がハイになるのよね」
「脳内麻薬ですかそれ……」

 
 ――頭(こうべ)を振りかぶると、道の果て、西の彼方に日が入るのを見ました。
 「なもあみだぶ! なもあみだぶ! なもあみだぶ!!」
 わたくしはひたすらに念仏を叫び、西方の弥陀の浄土をただただ一重に希(こいねが)います。
 鯖の美味なる所以か、戒を失いしわたくし自らへの慟哭か、生を保ちし事実への歓びか。
 はたまた……。

 
 ――そこでふと気が付いた。
 つい興が乗ってしまったが、よくよく考えると、次回作は恋愛小説ではなかったのか?
 その事を後輩に言うと、「いつ気が付くか面白くて」などとぬかしてくれるので、罰として恋愛小説のシミュレーションに丸一日付き合わせてやったのは言うまでもなかろう。

 
「……沙英、まだ宮ちゃんに怒ってるのかしら?」
「……この主人公ほどひどい事はしていませんから、大丈夫だと思いますけど。一応この話、宮ちゃんに元ネタを貰ったようなものですから」

 
「ふ〜っ、やっと読み終えた〜」
 妙に濃厚な、それでいてさっぱりともしている、まるで鯖のような味の小説を読み終えて、ゆのは小さな身体に精一杯の背伸びをした。宮子も「凄いですなー沙英さんっ」と満足し、ヒロは自分の事のように沙英を誇らしく思ったのは言うまでもなかろう。
 奇妙な読了感を抱えたゆのはそのままページをめくり、他の小説も流し読みして、やがて最後に近いページにたどり着く。
「ねえ宮ちゃん、ここに次号の予告があるよ」
「次号? どれどれ〜」
 宮子はゆのの肩越しに誌面を眺めて、橘文先生の連載予告を見ると――、
「えっと……『大学に入学し一人暮らしを始める佳奈は、隣人のかおりと出会う』」
「『芸術家肌のかおりの挨拶は、とても不思議なクロッキーだった』……って、もしかしてこれって私と宮ちゃん?」
「とは断定できないわ。ほら、佳奈はイラストを見ると背が高いみたいだし」
「でもゆのっちみたいで可愛いよねー。三階のウメスさんの方がゆのっちに似てるけど」
 どうやら橘先生の次回作は、身近な話題を扱うタイプの作品らしい。
「うぬ〜、モデル料としてお米でも頂かねば〜! できれば日本晴を〜! ついでに甘いお醤油に合わせ味噌も〜!」
「またお米ですか……しかも微妙にホームシック気味ですし……」
「お米なのね……ササニシキの方が私は好きなんだけど……」
 福岡出身の宮子の食事の好みは、山梨出身のゆのや、山形出身のヒロにはいまいち分からない事が多かった。たらこが好きだけど東京の明太子は美味しくないと言い切るし、料理には大量に砂糖を入れたがる。代々甘味好きのヒロですら辟易する甘さは、校長先生によると九州は砂糖を長崎から入手しやすかったからだというのだが……。
「……宮ちゃんが使ってる福岡のお醤油、甘草やステビアが入ってるんですよ? 合わせ味噌っていうのも、米味噌と麦味噌を合わせてますし、まさか日本がこんなに広いなんて思いもよりませんでした」
「意外と評判悪かったよね。甘い物大好きなヒロさんには受けると思ったのになー」
「も、もう、宮ちゃんっ!?」
 宮子の相変わらずの発言に、ゆのも、ヒロもつい笑みがこぼれる。
 そんなひだまり荘は、今日も今日とて平和だった。

 
 その頃沙英は……、
「あ〜〜〜〜っもうっ!! 邑子と良子の描写が、何で恋人みたいになるのさっ!? それに松来先生も、これじゃまるっきりよっしーじゃない!」
 次号掲載予定の小説の執筆に、絶賛苦戦中だったのは言うまでもなかろう。
(終)


戻る


『ひだまりスケッチ』:(C)蒼樹うめ/芳文社/ひだまり荘管理組合