○ 青い空見上げて ○


『──ちょっと浮いているというか非現実的な作品を描いてみたいです。人間が空を飛んでもいいじゃん! みたいな雰囲気の』
「ゆのっち、これ何の番組?」
 ある休み前の日の晩、宮子はラジオを聴いているゆのに質問した。ゆのは左斜め後ろの親友には向き直らずそのまま、パーソナリティーの原田さんとかいう声優さんの声に耳を傾けながら返事をする。
「えっと、漫画家さんの談話みたい。提供先の雑誌に描いてる人で、作品がアニメ化したんだって」
「ふーん」
 とりあえず宮子は胡坐をかいて座りながら、所在無げにゆのの本棚を見回した。実は宮子も優等生だけあって、そんなに活字が嫌いではない。借金取りから逃げた事もある宮子の家には大して本がなかったから図書館の本を読み漁ったもので、おかげであれこれと雑駁な知識が身に付いてもいる。
 本棚には美術書や教科書やノートやスケッチブックが並び、可愛いイラストの画集もいくつか見られるが、漫画は別の所にあるのか、それっぽい大きさの本は見当たらない。
「ねーゆのっち、その作品って持ってるー?」
「……持ってるからさ、とりあえず後で貸してあげるね?」
 という事は持ってないんだな宮ちゃん、と思いながら、ゆのがベッドの上から本を取り上げて渡すと、宮子は目を大きく見開いてその漫画を隅から隅まで観察する。美術系の大学に入った大学生の佳奈が、親友のかおり、先輩の邑子や良子、講師の松来先生、学長の長島先生といった面々と繰り広げる話。自分も将来は美大を目指しているゆのは、そんな大学生活を送りたいと思っている。特に身長は、今はかおりくらいしかないけどきっと佳奈くらいに(以下略)。
「近頃の4コマ漫画の単行本って、カバーの中で遊んでるのがデフォですなー」
 そんな事までは知らなかったゆのは、こっそり別の巻のカバーをめくり――きわどい姿で深夜開講撮影演習を行う松来先生の姿に、脳内が一瞬真っ白になった。

 
 番組が終わるまでゆのと宮子は、若夫婦のように寄り添ってラジオに耳を傾けていた。どちらが夫でどちらが妻かはご想像にお任せ。
 その後も「OH! スーパーかおりちゃん」「恋愛小説か?」「松来地蔵」「You don't know?」「屋根の上のアスミス」といった様々なコーナーが続いて――菊池miccoというコンビの、marさんの歌声とbleさんのギター演奏、そして原作者のトライアングル演奏を背景に、原田さんが番組の締めの挨拶をする。
『ひだまりスイッチラジオは、シャトレひだまり管理組合の提供でお送りしました』
 番組が終わり、芳文書房の『月刊きらら』のコマーシャル(橘文の新作含む)に入ると、宮子とゆのはラジオから向き直り、向かい合わせになった。二人の視線が交差するが、だからといって何かが起こるわけでもない、のびのびとした時間。
「で、さっきの番組聴いて思ったんだけどさ」
「何?」
 宮子のいつも悪戯っぽい目の輝きに対して、ゆのはちょっとだけ上の空。もちろん図々しい所のある宮子はそんなのお構いなしで、勝手に自分の話を進める。
「ゆのっちは、空を飛べたら何したい?」
「ええっ!? わ、笑わない?」
 何やら夢想に耽っていたゆのは、顔を火照らせながら、夢想を払い消すかのように手をぶんぶんと振り回す。そんなゆのを楽しく眺めてから、子供がするみたいにくしゃくしゃと柔らかい髪を撫で付ける宮子。
「ダイジョーブ。私も一緒に言うから」
「……約束だよ? 『もし私が飛べたら』で始めようか?」
「おっけー! せーのっ」
 ゆのと宮子は息を吸い、同時に自分達の夢想を披露する。
「もし私が飛べたら──」
 飛べたら?
「──空高く飛んで、町を眺めて散歩したいなぁ。そして鳥さんとも仲良くなるんだ」
「──学校に楽に行けるよね。玄関出たらそのまますぱーんと飛んで教室にゴー!」
 全く異なる、二人分の幻想。
 一瞬間を置き、そして互いに笑い出す。お互いの意見の違いのギャップと、その違いがお互いの性格にフィットしているその事に。まさしく、破顔一笑の一時。
「ははは、ゆのっちってメルヘンだなぁ」
「あはは、宮ちゃんこそ豪快だよ〜」
 単に飛ぶイメージだって、自分と宮子ではここまで違う。というか、宮子のは「跳ぶ」ではないかとも思うけど、そんな蛇足は放置しておく。
(だって……眠いしー。鍵もかけたし……明日は休みだから朝早く起きないでいいから……)
 ゆのと宮子はごろりと横になり、星空を眺めながらまどろんでいた。このアパートはすぐ横に広い庭があるため、冬は部屋が程よく暖まり、夏も風通しが良いためとても過ごしやすい。
「んんっ……」
 瞼をゆっくりと閉ざし、明晰な世界の裏側へと、二人は仲良く落ち込んで行った。


 やがて訪れる、青空。とはいってもまだ朝だから、空は蒼、藍、縹、瑠璃、菫、翠、若草、紅、朱、鬱金という具合に染め分けて、山吹色と浅葱色の絹糸で編み上げたように繊細な雲が掛かっていた。
「おっはよー、ゆのっち♪ ちょっと早いけど上がってるよん」
「……ん?」
 眠い目をうっすらと開きながら、ゆのは宮子が部屋にいる事を不思議に――思わない。宮子はいつもゆのの部屋に入り浸り、そのまま寝てしまったりする事も多いから。とはいえそこまで親しくなれるという事実自体、ヒロと沙英に匹敵するらぶらぶカップルに見えなくもない事もよもやありえるかと憶測されるに過ぎないのだが。
(って、変なナレーション付けてないで起きないと。ヒロさんほどじゃないけど、私も眠いと変な事するらしいし)
「お、おはよ宮ちゃん」
「えへへー。今日もご飯よろしくー」
 宮子が手に提げていたのは、ゆのが机の上に置きっぱなしにしていた、春の竹のように鮮やかな色の勾玉。あまり高くない石を染めたものだけど、「この丸まり具合がゆのっちっぽいよねー」とか宮子は言っていた。元はみさと先輩の鍵だからか、ヒロは鍵を見る度にみさと先輩をイメージするらしいけど。
(…………鍵?)
 微妙な違和感を抱きながら、ゆのはやまぶき高校の制服にもそもそと着替える。首を軽く振ってから見渡すと、部屋の中には美術の道具と一緒に魔法陣や魔法の器具、魔法の触媒が転がっていて――とはいっても宮子の部屋の惨状ほどではないけれど――、緑の蛹のような小人のような不思議な生き物が掃除をしていた。
「おはよう、うめ先生」
「おはよー♪」
 うめ先生は、意外と言っては何だが、声が結構可愛い。ちょこまかした動きのうめ先生は、キッチンに飛び乗り電子炊飯器の蓋を開けた。
 器用にご飯を盛り付け、味噌汁の味見をしているうめ先生を見ながら、ゆのにはちょっとした疑問が誕生する。
(……って、何で私はこの人の名前を知ってるんだろ?)
 そもそも何の生物なのかという疑問もあるが、うめ先生は机の上にご飯を持ってきてくれる。ほかほかの白いご飯と合わせ味噌の味噌汁、サニーサイドアップの目玉焼きにレタスとトマトとジャガイモのサラダ。目玉焼きを許しがたい外道なターンオーバーにせず持って来てくれたうめ先生に感謝しながら、ゆのは正座して右手に箸を添えた。
「美味なモーニン、頬張って♪」
「うん、頬張るね。それじゃいただきます」
「いっただっきまーす!」
 なぜか宮子まで脚を崩して座りご相伴するが、うめ先生は予知していたのか、単に当たり前と考えているのか、宮子用に丼飯を渡す。ゆのはしっかりとご飯を噛みながら、宮子が心の底から幸せそうに明太子を頬張るのを眺めた。
(普通においしいよね。宮ちゃんが丼でご飯食べてるのはいつもと同じだけど)
「目玉焼きが軟弱なのはいけませんなぁ。卵はもっとこう、がつっと歯応えがありませんと」
 目玉焼きの理想のイメージも、二人ではここまで食い違う。朝食の目玉焼きを勝手にターンオーバーにされた時は怒りのあまりフライパンで宮子を叩き続けていたゆのだったけど、その時よりは少しだけ、図々しくたまに暴言も吐く、でも純真で小さな男の子みたいな、多芸多才な隣人に寛容になれた気がする。
 甘いお醤油も、時々漂う強烈な豚骨のにおいも、じゃりじゃり硬い羊羹も、薩摩芋の角切りを包んだだけの「団子」も、今日からはちょっとだけ許せそうな気がした。

 
 うめ先生は食事を終えると「んー」と背伸びをして、そしてお風呂に入る。「見ちゃダメ!」と可愛い声で言い残したが、「見てどーするんだ」とかいう疑問は健全なゆのの脳裏には浮かばなかった。というか、入浴中の緑の蛹を見て喜ぶ人はあまり想定できない。
 食器を洗ったゆのが手を拭くその横で、宮子は鞄を手に持って、足元をちょっぴりそわそわさせている。
「ゆのー、急がなくていいの?」
 と、心配そうな宮子。いつもは心配する立場は逆なのに、微妙な違和感とおかしさを感じながらも、ゆのは急ぐ理由を思い出そうとする。
 時計――まだ余裕。
 空模様――快晴。
 教科書とノート――昨夜のうちに準備済み。
 画材と工具――同じく準備&儀式済み。かさばる分は学校に置いてある。
 課題――提出まで余裕十分。
 体操服とジャージ――今日は体育はない。
 吉野屋先生――校長先生に早朝から怒られているので問題なし。というか、吉野屋先生は美術科の生徒全員に自分の状態を知らせる魔法を常に発信し続けているので、鬱陶しいシグナルに我慢をできない沙英が遮断の魔法を込めた道具を作り上げたくらいだった。
 結局理由を思い出せないまま、手早く制服を身に着けたゆのは宮子に聞いてみた。
「んー、何だっけ?」
 宮子が「ゆのっち」ではなく「ゆの」と呼ぶ時は、大抵真面目な話が後に続く。宮子判断なのでゆのまで真面目に考える必要があるかは状況により大きな差があるが、とりあえず一応は耳を傾ける必要はあるはず。
「朝礼前に、真実と課題の相談しようって言ってたでしょ?」
「…………あ」
 真実は、ゆのと宮子の共通の友達の一人。ちょっと悪戯好きで、着替え中にホックを外して、ゆのはにゃんこ模様の下着を見られてしまった事がある。さすがにその時は反省して、後でおごってくれたけど。
「はっはっは。ゆのっちって実はドジっ娘?」
 確かに……宮子に言われるとそうだった気がする。ゆのは頭の中が一杯になって、一切を放擲しながら絶叫を連発。
「わー! 今からじゃギリギリでしか間に合わないぃい〜〜!!」
「そんな時には飛ぶんだゆのっち!」
 無駄に元気を込めて断言する宮子。そのままててっと走り出し、ついでに木炭デッサン用の食パンを袋ごと咥えて廊下に出て――、
「そそそそんな無茶だよ──って宮ちゃん!?」
「ていっ!」
 宮子は廊下の柵から身を乗り出し、そして空高く飛翔した。
 そのまま宮子は風に乗り、まるで鳥の羽のようにふわりと上昇してから、やまぶき高校のグラウンドに影を落として飛んでいく。
「ええええええええ!?」
 そして美術科の1年A組の教室の窓へ。
 激突した。
 そして落下するが、なぜか不自然に、落ち葉のようにふわりと降りて、大の字になって着地。食パンも本人にやや遅れて、柔らかさを失わないまま地面に降り立った。
「じゅってんれいー!」
「……だ、大丈夫宮ちゃん!?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。校舎を飛び越した時に比べれば上出来だよー」
 着地した姿勢のまま、空を見上げて宮子は叫ぶ。
「いやー、あの時は雷車で感電しちゃって、桑原先生が治癒してくれなかったら大変だったよねー」
(……何であんな遠いのに声が聞こえるんだろ? これも魔法?)
 連続する不思議な現象をなぜか普通に受け止める自分自身にゆのは二重に驚くのだが、ともかくこれで分かった事は――宮子が飛べるならゆのも飛べるはずという事実。
「そ、それじゃ私もっ。――たあっ!」
 勾玉のような「鍵」を扉に押し当てて錠をかけてから、ゆのは階段を蹴って飛び出し、なのにうまく飛び出せず、いきなり平衡を失いながら錐揉み状態で突き飛ばされた。
「きゃあぁあぁあ〜〜〜〜!!」
 恐怖のあまり叫ぶと、その反動で強い斥力がゆのの身体に掛かり、ばねで弾かれたように、あるいは体操選手のストップモーションのように、とまで綺麗ではないけれど、ともかく空へと飛び上がった。姿勢はそのままなので吹き飛ばされているようにしか見えないが、当事者としては姿勢を気にするような余裕はあるわけない。
 視界は一気に澄んだ青の空へ飛び、そのまま水底へ潜って行くようなイメージをゆのは受け……そこでゆのの心は空と一体になり、ようやく落ち着いて状況を把握するに至った。
「わわわわ……わぁっ!? ホ、ホントに空飛んでる!?」
 やまぶき高校の校舎より高い視点(20〜30メートルくらい?)から見る町は、ゆのが知っている緑市の風景とはかなり違った。街路樹や植え込みが多く、建物も単なる四角い箱ではなくて、蔦のような草を使って全面緑化してあるか、ゆのの知っている、あるいは知らない建築様式で区画ごとに統一されている。ひだまり荘も昔の名建築アパートのような外見になっていて、「家賃はいくらなんだろ?」と、つましい心配をしてしまう。西洋館らしき建物もあるが、迷彩色のサンタクロースを警戒してか、煙突は一本も見当たらない。そして空には、人や小型の飛行船、オーニソプター(羽ばたき式飛行機)があちこちで飛んでいた。立派な造りの駅には稲光をなびかせる列車(雷車?)が停まり、やまぶき高校の生徒がホームに降り立っている。やや遠くに朝日を受けて輝く、細い錫箔のようなものはたぶん、アザラシの「とーちゃん」が近頃姿を見せている桃花川。遠くの岩樺神社の辺りには激写怪獣ポラロイドンのシルエットが浮かび、狛モンスターの霊力に今日も封じられている。
(えっと、ここは、こうやってっと)
 自分の中の「見えない何か」で掴んだ風(のような生き物のような何か。もしかすると生きている世界の一部?)を操って、ゆのは空中で自由に舞う。高度を少し落としてみると、やまぶき高校の中がはっきり見渡せて、竹林の中にチクリンの群れが集まって吉野屋地蔵を囲んでいるのも見えそうなくらい。ひだまり荘の庭にも、マーライオンの噴水で飾られたブルータスの墓を取り囲み、兎や、服を着て直立した兎や、油性ペンの極太で描いたような得体の知れない何かが戯れる。庭の隅、自転車の「専務」を置いている近く、宮子が2号機「やり手の女社長」を配備したがっている辺りには猫飯草が生い茂り、猫というより怪獣のような鳴き声を上げていた。
 校内では、足の速い豆腐が普通の豆腐を両手に持ちながら走り、学食の中へと消えていく。モヤシや鶏肉、青魚も疾走して、豆腐の後を追っていた。乳液で潤った象はそんな騒ぎに構わない――インド人のようなブルータスとニホンザルのジョンを背に乗せて、二人羽織でお腹をすかせているフランシスコ・ザビエルに手綱を引かれながら。校庭にはヌーの大群がカップルに披露されるのを待ちわび、片隅では風邪に用心するカバと輪投げの的になったキリンが仲良くたたずむ。校舎の上では空飛ぶ円盤が鳩と蛾の大群にもみくちゃにされて、その脇を誰かの虎と馬が昇天していった。
(る〜る〜る〜るる〜〜♪)
 心のステップを身体で感じ取り、ひらりひらりと虚空のダンスを楽しむところ──宮子の声が飛んできて、ゆのは我に返る。
「ゆのっちー」
 やまぶき高校の校庭に立って手を振る宮子の声は、まるで隣にいるかのように明瞭に聞こえた。
「どうしたの、宮ちゃーん!」
「町内の皆さんにー、にゃんこ模様のぱんつを披露してるにゃーん!」
 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「へ?」
 宮子の指摘に凍り付き、足元の──スカートの中を見られてしまう辺りを見ると、そこには。
 顔を赤くしながらも視線を外せないヒロ。
 耳まで真っ赤で口をぽかんと開けた沙英。
 そして同じクラスの中山さんも真実ちゃんも。
 桑原先生も校長先生も益子先生も用務員のおじさんも学食のおばさんも。
 岸さんも大家さんも智花ちゃんも夏目さんも直居さんもベリマートのおばちゃんも折部さん姉妹も。
 お父さんとお母さんもいる。あのおばあさんはヒロさんのお祖母さんだろうか。派手な格好の人がもしかするとみさと先輩で、顔が全面髭なのは宮ちゃんのお父さん?
 吉野屋先生は撮影機材を揃えて、動画を熱心に撮影していた。藤堂先輩は様子を実況しているけど、幸いにも実況はゆのの所までは届いていない。
 うめ先生も一言──、
「お子様?」
 そして、町内に響き渡る絶叫。
「い、いやあああああああぁあぁぁあ!?」
 スカートを押さえようとしたら、身体と風のコントロールが一気に崩れて、ゆのは翼を失った鳥のように一直線に校庭へと落下していく。
「わ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
(覚めて覚めてこんな夢〜〜〜〜っ!)


「……はっ!」
 目を覚ますと、そこはいつも通りのゆのの部屋だった。美術の道具は転がっているが、魔法の道具は転がっていないし、うめ先生も(屋根の上ならともかく、少なくとも部屋の中には)いない。朝の空気はすがすがしいのに、自分とは断絶した何かとしか感じられず、どことなく疎外感を感じてしまった。
 そしてゆのの寝起きの顔は、ヒロと宮子に両側から見詰められていた。ちなみに、左側の宮子はベッドに乗っている姿勢で。
「目が覚めた、ゆのさん?」
「暇になっちゃってずーっとゆのっちの寝顔を堪能してたけど、いやー、やっぱりよく寝るよね」
「ふぇえっ!?」
 ヒロだけでなく宮子にまで寝顔を堪能されていた事実に赤くなりながら、ゆのは今まで見ていた不思議な夢をコマ送りのように思い返す。あれだけ覚める事を望んでいたのに、それでもあの夢の世界が懐かしい。
 可愛らしくも固まったゆのに宮子はそっと身体を寄せて、耳元で恋人の睦み事のように囁く。とはいえ声は全然色気がなく、小さな男の子が内緒話をするのと変わらない感じで。
「きっと、ゆのっちも育ってるんだよ――見えない所が」
「宮ちゃんっっ!!」
 一気に顔面が紅潮するゆの。夢の中でスカートの中を覗かれた経験が一気に蘇り、再度絶叫したくなる気分だった。
「宮ちゃんが言ってるのは頭とか心とかなのに、真っ赤になってゆのさん可愛い♪」
「あ、ヒロさんは横方向――」
「――そのネタはもう聞き飽きたわよ」
「ああっ、無視しないで突っ込んでぷりーずっ!」
「もー。宮ちゃんもヒロさんも相変わらずなんだから?」
 でもやっぱり、ここにも宮子がいて、他のみんながいるから嬉しい。その気持ちは宮子とヒロも共有している事を知っているからなお一層。
 そんな三人の様子に気付いて、残る一人がゆのの方に振り向いた。
「あ、ゆの起きたんだ?」
「あ、沙英さん。手元の紙束は何でしょうか?」
 いきなり突飛な質問をするゆのに、「やっぱり美術科だね。起き抜けに紙束を気にするとは」と沙英は言いながら鉛筆を手に取り、他の三人から等距離くらいの場所に落ち着いて、そのまま胡坐をかいて座った。まあ沙英は(宮子も)滅多にスカートをはかないので、胡坐でも問題はあまりないのだけれど。
「次の短編で、ファンタジー世界の恋愛を書こうという話になってね。エブリデイ・マジックをテーマにするんだけど、みんな、『自分が使ってみたい魔法』ってのはないかな?」
 質問の主である沙英は言うまでもなく、他の三人もそれなりにファンタジー小説やライトノベルを読み込んでいるのか、「エブリデイ・マジックって何?」とかいうお約束な質問をする人はいなかった。エブリデイ・マジックの何たるかはさて置いて、その沙英の質問に、真っ先にヒロが手を上げる――恐らくは、ゆの達より先に沙英から話を聞いて、あらかじめ考えていたのだろうが――。
「ダイエットの魔法!」
「そういう魔法が暴走して、女の子が連続で餓死するとか」
「嫌なツッコミしないの宮ちゃん〜!」
 楽しそうに不謹慎な話題を語る宮子と、拳でその胸元を軽く叩いて抗議するヒロを見ながら、沙英はすらりとした背を伸ばし、頭の後ろで手を組んだ。
「それは恋愛じゃなくてホラー向きだなぁ。それじゃ宮子は?」
「アバダケダ──」
「却下。はいゆのは?」
 パクりに腹を立てたのか、身も蓋もない考えに呆れたのか、もしくはエブリデイ・マジックに即死魔法を持ってくるセンスに絶望したのか、沙英は速やかに宮子の意見を無視した。いきなり話を回されたゆのは、うろたえながら必死に今までの考えをまとめようとするが、いくら唸っても頭に浮かぶのはさっきの夢だけ。
(わわわ私? え〜っと――)
 ゆのが思い返したのは、夢の中の、最も印象深く──でも恥ずかしい光景。
「空を飛べる魔法と、スカートの中が見えなくなる魔法!」
 沙英はゆのの真剣な言葉を咀嚼して、純粋な瞳をまじまじと眺めて――昨夜のゆのと宮子のように破顔一笑。
「ははっ。一つ目は確かにファンタジーっぽいけど、二つ目はいきなり現実的過ぎない?」
「……実はさっきの夢で、空を飛んだらスカートの中をみんなに見られて……」
 その正直な告白に、みんなは思いきり愛情を込めて笑い出す。
「ゆのさん可愛い〜!」
「はは、羨ましいですなぁ夢の中の私っ」
 ヒロの正直すぎる感想と、宮子の韜晦しながらかえって恥辱プレイを与えるような感想に、ゆのはうつむいてしまったが、沙英は「うんうん」と腕を組んでうなずき、頑張った娘へのご褒美に頭をくしゃくしゃと撫でた。元から身長に差がある分、座っても沙英はゆのを撫でやすいから、ポーズの組み合わせがしっくり来て、ヒロは「いいなあゆのさん」と思い、宮子も「今度ご飯おごってもらった時に撫でてあげよー」と感じていた。
「なるほど。確かに切実性がある不即不離の組み合わせだよね。いいアイデア有難う、ゆの」
「ふうむ、どうやら一等はゆのっちのようですな。では賞品として宮子特製明太子ご飯を」
「宮ちゃん、さっきゆのさんの釜から勝手によそってなかった?」
 ヒロの指摘を聞き流しながら、宮子は明太子ご飯が入った丼をゆのに渡す。とりあえず明太子ご飯は座卓の上に安置して、ゆのも正座して、膝を崩した横座りのヒロと並んだ。
 さて、宮子は沙英とお揃いで胡坐をかいて、視線がまだ明太子ご飯に泳ぎながらも、軽く手を上げて身を乗り出す。
「で、沙英さんに提供したい筋書きがあるのですけど」
「へぇえ」
 ストーリーカードとやらで「坊主が野原でサバを蒸す」話(しかも恋愛小説!)を書かされかけた記憶が蘇り、沙英の目は露骨に疑いを示すが、そんな表情など気にしないずれた所が宮子の本領。「息子」は役に立ちたい一心で、「お父さん」に自己流ストーリーを語り出し――、
「何かを曲げる事しかできない超能力者が、スプーンに始まり、チンピラのナイフ、ぎりぎり届かない手すり、銃弾の弾道、法律の解釈、海兵隊の頸椎、小惑星の軌道、エネルギー保存の法則など様々な物を曲げて戦い、そして最後は運命すら」
「さっきよりはまともだけど、今回のテーマはファンタジーだから」
「そして決め台詞は、『俺が曲げられないものはただ二つ、俺と君の熱い想いだ』──ってね」
「お前が書け。全10巻くらいで。いや、いっそ全100巻を目指して『グイン・サーガ』に挑戦するか?」
 とまあ、結局はいつもの次第に相成るわけで、「お母さん」と「娘」はそんな親子の語らい――実年齢は一つしか離れていないが――を見ながらにこやかに笑っている。
「沙英が書いてるのは短編なのに、宮ちゃんったら題材が大袈裟過ぎて、いっつもこうなるのよね」
「宮ちゃんが小説家を目指したら、沙英さんに弟子兼ライバルが誕生かもですね」
 何かと宮子が無茶を言ったり沙英が手厳しく制裁したりする関係だけど、やっぱり二人は似ているのかも――ゆのとヒロが似ているように。
 そんな心温まる光景を、休日の太陽は青い空の中、何も言う必要なしに照らしていた。
(終)


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