――5:20 東京近郊、某鉄道車内――

 八月中旬の金曜日、五時台の始発電車の車内。車窓に流れる光景は、まだ夜明け前ではあるが、刻一刻と明るさが増し、家を出た時に見えた星々はもう目に映らない。
 まだ暗いうちからひだまり荘を出た、やまぶき高校美術科二年生のゆのは、鞄を膝の上に、お茶とスポーツドリンクと軽食を入れたトートバッグを左脇に、同級生の宮子の頭を右の肩に感じながら、入学試験を受けた時の五分の一くらい緊張していた。ゆのに頭をもたげて寝息を立てている宮子の反対側――つまり左には、電話帳のように分厚いカタログを再チェックしている、美術科の一年生の乃莉もいる。
 そう。今日、ゆのと宮子は初めて、東京都江東区有明の東京国際展示場で年に二回行われる、日本で最大の同人誌即売会「コミックマーケット」に参加するのだ。


○ 有明物語 ○


――5:30 東京都心近く、某鉄道車内――

 そして電車は更に都心へと近付き、車窓もすっかり明るさを増した頃。
 少し賑わいを増している車内で、ゆのはそっと口を開く。
「ねえ、乃莉ちゃん」
「んー……どうしましたゆのさん?」
 コミックマーケットのカタログを一心不乱に見詰めていた乃莉が首を上げて、目を休めるように瞬きしながら一歳上の、だけど妹のように小さな先輩に聞き返した。その先輩の向こうにいる背の高い先輩――宮子は、夜明けの車窓に子供気分で噛り付いている。
 美術科には漫画家やイラストレーター志望の子もいるため、実はオタク比率も意外と高かったりする。そう、例えばこの、左右に小さなおさげがある子のように。
 乃莉(と、同学年のなずな)が引っ越してくるまで、ひだまり荘にはパソコンがなく、インターネット回線も引かれていなかった(携帯電話にはメール機能もウェブページ閲覧機能も備わっているが、宮子は携帯電話すら持っていない)。そのため、一挙に到来したIT革命(宮子談)に、特にゆのと宮子が湧き立ったのは言うまでもない。
 それはさて置き、乃莉もその種の微オタとして、オタクとしてそこそこ通用する知識と、一般人への配慮ができる常識とを持ち合わせており、一度は小規模なイベントに参加した経験があるとはいえ素人同然のゆのと宮子に、参加にあたっての注意事項、カタログの見方と使い方、事前に準備する物、電車の時間といった必要不可欠な情報を要領良く伝えていた。
「コミケって本当に、乃莉ちゃんが言ってたくらい凄いイベントなんだ」
「へ? ――ああ、確かにこの時間でも、ご同輩が大勢おりますからね」
 乗った事がない人には意外かもしれないが、四時台から五時台に走る始発電車には、意外と多い乗客がいる。最終電車に乗り遅れた人達はもちろんだが、それ以外にも――、

 
 動きやすい格好をして、大きなリュックサックを背負った、登山に向かう人が三人。
 朝早くから海釣りに行くと思しき、釣り道具を携えた人が二人。
 大きな旅行鞄を前に置いた、東京から出る新幹線の始発電車か、羽田や成田から朝に出る飛行機に乗る予定らしい人が三人。
 大きな鞄やリュックサックや、人によっては小さな台車に乗せた段ボール箱を携えている、ゆの達と似たような人が二十人以上。

 
 ……つまり、この車輛の中には、コミケに行く人だけでもそれだけいるという事。列車全体では、更に輛数を掛けた数に近くなる。この人数が集積されて、りんかい線やゆりかもめに乗る頃には、一体どーいう状態になっているのか、考えるとゆのは気が遠くなり、宮子はめんどくさくて考えるのをやめた。
「あうううう」
「あー、凄い盛況のようですな。まるで天神か中洲の如く」
 宮子は福岡の繁華街の名前を口にしながら、期待に目が輝いている。
「大阪港のコミトレとか、東京の池袋のサンクリとかも大きいですけど、やはりコミケはそれらの比ではありませんよ」
 と言いながらうきうきしている乃莉の様子にも、ゆのは常ならぬ眩しさを感じた。
(やっぱり好きなんだね、コミケ……)
 ゆの達は一度、なずなも含めて、近くの同人関係のイベントに一般参加した事がある。その時もお祭みたいに賑わっていて、とても充実した時間を過ごせたのだが、それよりも上となると、さすがにちょっと想像付かない。
(その熱意、見習いたいな。美術科の生徒として)
(ゆのさん……視線が熱過ぎます)
 やたらと眩しいゆのの熱視線を浴びながら、乃莉は想定していた区域の外に目当てのサークルを見付けて、ページの隅を目印に折り込んでから、マーカーでサークル名に線を引いていた。


――6:30 東京国際展示場、東駐車場――

 乗り継いだ先の電車を降りて、走り出したりはせず安全に階段を進んで、混雑する改札を抜けて、係員の指示と乃莉の先導で延々と歩いてやって来たのは、国際展示場の東側、海の目前にある駐車場を埋める待機列。列を示すために――、
「え、えーと、カラーコーンだっけ?」
「やまぶき地蔵に被せてあげたけど、気に入られなかったのか、ベランダに下げておいた干物が無くなってたんだよねー、プラ帽子」
「……パイロンですよ」
 ――パイロンが点々と並び、そこに人が大勢並んで座っている。……いや、今はまだ、列を一時的に外れて食べ物を出店で買っている人や、トイレに並んでいる人、夜明けの空を眺めている人――だけでなく、座っていても本を読んでいる人、携帯ゲーム機で遊んでいる人、友達や家族にメールを打っている人、カタログを再確認している人と、バラバラの行動をして時間を過ごしていた。
 始発に近い電車で来たはずなのに、この想像を絶する人の数にゆのは戸惑い、言葉を失いそうになる。
「うわわわ。や、やっぱり凄そうだね乃莉ちゃん」
「おかしいですねー。いつもはこんなに大勢じゃないのに」
「ところで乃莉っぺ、例年はどれ程の人出なのでしょうか?」
 宮子の質問に、乃莉は顎に手を当てて「んー」と考えるが、主催者や警察ではあるまいし、そもそもよく知らないものを考えても答えられるはずもなく、適当な所で妥協した。
「具体的な人数までは分かりませんけど、今日の七割くらいいましたよ」
「それでも十分多いよ乃莉ちゃんっ!?」
 ゆのの初心者らしい叫びを乃莉は受け流し、話を続行。
「実は今日、ミホがいるサークルが西館に出てるんですよね。それも近頃人気の国擬人化シリーズですから、満員御礼は必至ですし、下手すると午前中に売り切れそうで」
 乃莉は地元の友達兼チャット仲間がいて、その一人がミホコ――漢字でどう書くかは乃莉しか知らない――。ミホコはサークル参加、つまり物を売る側で、乃莉もミホコが売る物を買いに行くつもりだとゆのと宮子は聞いていた。……具体的な内容を聞こうとすると、「BL」とかいう二人には理解不能の単語を口走って慌てていたので、それ以上の追求はしていない。
「別にミホがBLに手を出してるなんて言ってませんからね? その辺りのサークルの出版物にゆのさんを染めたくないだけですから」
 ……とも、乃莉は虚空に向かって言い訳をしていたが。
「ど、どこで、ミホコちゃんと待ち合わせしてるの?」
「ミホはサークル参加ですから、私達とは別の入口から入るんです。一緒に入れてもらってもよかったんですけど、売り子の人手も足りてますし、一般参加に専念したいですからね」
 と、そこで乃莉は、肩をほぐすついでにすくめて、学科は違うけど大切な同学年の友達の姿を思い浮かべていた。
「あーあ、ホントはなずなも連れて来たかったけど、あの子に人混みは向かないもんね」
「だね。前のイベントで、人の熱気に当てられてダウンしてたもの。コミケに並んだら、救護班のお世話になっちゃうよ、なずなちゃん」
 コミックマーケットは入場者が桁外れに多いため、サークル側でない一般参加者は、正面入口から青海方面へ続く遊歩道か、今ゆの達がいる東側の駐車場に整列させられる。もちろん、真夏の屋外がいくら早朝でも快適な環境であるわけもない。乃莉に言わせると、「今日は薄曇りで風もあるからいつもよりマシです」らしいが、いつもが一体どんな環境なのか、ゆのはやはり想像したくもなかった。
 あと、乃莉はひだまり荘で、ゆのと宮子よりもう一年上の沙英とヒロも誘ったのだが、沙英は「悪いね。その日は芳文書房の仕事が入ってるから」と、ヒロは「美容のために日焼けはしたくないの〜!」と、それぞれ断りを入れている。
 そんなあれこれとはまた別に――ともかく暑い。八月半ば、お盆の頃はまだ暑さも頂点を迎えた盛り。
「にしても、朝から暑いねー」
「でも、湿度も低いみたいで、肌の上に汗が溜まりませんね。普段は全身汗ぐっしょりで、かえって有難いくらいですけど、汗自体は出ていて水分補給は欠かせませんから」
「……で。ゆのっち、スポーツドリンク飲んでる?」
 宮子の問いに、身長比較では妹に見えてしまうゆのはもじもじと身体を動かして、うつむいて顔を赤らめた。
「で、でも、その、トイレが近くなりそうで」
「脱水症状で倒れるよりはいいでしょう? 倒れると買えるものも買えなくなりますよ」
 先輩にも容赦ない乃莉は、目尻を険しくして、びしっと指を突き付ける。
「列に戻れるのは八時半までですから、その前に余裕を持ってトイレに行く! 一日目と二日目は女子が多いから三十分から四十分は余裕を持って! 周りの人の邪魔になるから日傘は極力使わずに、帽子やタオルで頭と首筋を守る! 座ってばかりではなくて時々立ち上がって身体をほぐす! 暑さに弱いなら風が少しでも期待できる列の端を狙う! 列移動が始まる前にはいつでも動けるように荷物をまとめる! 最初の目的地が1・2・3ホールか西館なら左へ、4・5・6ホールなら右へ!」
「あうあうあう」
 本職の誘導員顔負けの乃莉の迫力に、初体験者のゆのは混乱したり萎縮したりで、ただただ声を上げ続ける事しかできなかった。
(あああ、私お姉さんなのにーっ!?)
 いや、一年しか違いませんし、ゆのは小柄で行動も自然に愛らしいので、乃莉もなずなも「可愛い」と思っていますから。


――10:30 東京国際展示場、東地区1ホール――

 そして――十時の開場と共に、戦いは本格的に開幕する(のは早くから並んでいた人の話。この時間でも場外に並んでいると、参戦は最大三十〜四十分は後回しになる)。壁際の大手サークルの本を買うために場外に長蛇の列を作る者(開場前に列を作っていたのはどこから来た人なのか、ゆのは乃莉に聞いたが、先輩をディープな世界に巻き込みたくない乃莉は口を濁すばかりだった)、目当てのジャンルが固まっている場所へ行く者、西館の企業ブースを目指す者(三日間開いているが、売り切れを恐れて今日向かう者が多いらしい)、それらが欲望の渦を成す中に、ゆの達もマイペースに動いていた。
「それじゃっ! 正午に東館からエントランスへ行く通路の入口の左脇でっ!」
 東館、もしくは東棟とは通称。正式には「東地区」と呼ぶのだが、案内も「東1ホール」とかしか書いていないため、乃莉の頭の中ではあまり使われない模様。
「う、うん。頑張ってね乃莉ちゃん」
 何をどう頑張るのかゆのに分かるはずもないが、それでも一応励ましの言葉を先輩として送る。
 乃莉を見送った二人は、1ホールにある、アニメ関係の同人誌を売るサークルが固まっている区画を、柱の所々に掲げてある仮名やアルファベットを目印にして探していた。
 しかし――東京国際展示場は、国内でも最大級の見本市会場であるだけあって、前に行った事のあるイベントで使っていたような、公共施設の展示室とは話が違う。東地区にはホールが六つある事になっているが、実際には大きなホールが二つあるのを、それぞれ三つずつに分けて使えるようになっているだけ。
 つまり、全館を使用するようなイベントでは、1ホール・2ホール・3ホールが一体化した、ほとんど飛行機の格納庫のようなだだっ広い空間を彷徨う羽目になるわけで。

 
「ええっと、『K』はっと」
「右の方〜右の方〜」

 
「ああっ、すみません。人がいます。踏まないで踏まないで下さーい!?」
「わーっ! 流れに呑まれるな耐えろゆのっちー!?」

 
 人の流れに揉まれながら、目的地を目指すゆのと宮子。途中で人が比較的多くない区画に入り、一息ついて落ち着いたところで周囲を見回す。
「ふぅむ。やはり一番外側の通路は混みますなぁ」
「だね。乃莉ちゃんみたいにイベントに慣れてれば、混んでる通路も自由に動き回れるようになるんだろうけど」
 いや、コミックトレジャーだろうとサンシャインクリエイションだろうと、混雑はコミックマーケットとは別物ですから。
「……もしくは、バーゲンセールに慣れてるヒロさんなら?」
「……押し合っちゃダメだから、それとは違うと思うなー宮ちゃん」
 会場には会議室で使うような長い机が列を成して延々と並び、その中には売り手が座るパイプ椅子が並んでいる。机の上には所狭しと本やその他の売り物が積み重なり、可愛い女性キャラクターの立て看板があったり、イラストの色紙が飾ってあったり、色々と目を楽しませてくれる。ゆのは学園祭を、宮子は夜店を連想して、高揚している気分を更に高めていた。
「本ばっかりだね……知らない作品も結構多いし……」
「たまにCDもあるけど、やっぱり本が一番多いよねー。明後日には手作りの品物も色々並ぶから、ゆのっち好みの石鹸とかを探すといいよ」
「…………」
 ゆのは感動で潤んだ目が輝き、見詰め合ってしまった宮子は赤面して、服装同様に男の子っぽい仕草で背中を掻く。
「いやー、乃莉っぺに買ってもらったカタログを事前チェックすればこれくらい」
「凄いよ宮ちゃん……。私は一日目だけで精一杯だったのに……」
「いやいや。――おっ?」
 目当ての区画の中に、宮子は知っている人を発見した。ちょっと褪せた感じの髪を結んで、健康そうな小麦色の肌をしている、美術科で一年上の夏目――まあ名前はさて置き、夏目はちょうど同人誌を買ったところで、大切そうに鞄の中へいそいそとしまい込んでいた。夏目が後にしたサークルでは、夏目の後ろに並んでいた、腰の辺りまである長い髪をおさげにしている、凛々しい感じの女の子が本を買っている。
 夏目に気付いたゆのは、そっと近付いて声を掛けた。
「あ、夏目さん。夏目さんもコミックマーケットに来てたんですね?」
「とっ、友達に付き合って来たんだからっ! それとゆのさんも宮子さんも、この辺りの同人誌は面白い物が多いわよ! 特にこのサークルのは、絵も上手だし、原作のイメージからあまり外れてなくて、初めての人にも向いてるんだから! それじゃっ!」
 一気にまくし立ててから、夏目は早足でその場を立ち去ってしまう。もちろん周りに注意しながらなので、そんなにも早足ではないのだが、追う理由もないゆのと宮子はそのままサークルの前に取り残されていた。
(……嵐みたいな人だなー)
(……暑さのための体調不順?)
 驚いたのはゆのと宮子だけではなく、端から見てもよほど印象的だったのだろう。サークルの人もおさげの女の子に、「あれこそが真のツンデレっスよ。先輩はツンデレじゃなくて保護者属性ですから」とか話しているから。
「あ。えーと、夏目さんはともかく、サークルさんに本を見せてもらわないと」
 ゆのと宮子が夏目お勧めのサークルに向かうと、おさげの女の子(サークルの人と知り合いらしい)が場所を空けてくれる。サークルのスペースの中にいるのは一人だけで、多分この人が同人誌を作ったんだろうと思うと、ゆのの全身に緊張が走り――、
「さあゆのっち、初めてのお使いだっ」
「だ、大丈夫だよ宮ちゃん。前のイベントでも本を買ったんだし」
 宮子の励ましに苦笑しながら、ゆのはサークルの机の前に立つ。
 机の向こうに座っている、長い黒髪に大きな丸眼鏡の、小柄だけどゆのよりもう少し背が高そうな高校生くらいの女の子に、ゆのはやけに礼儀正しく、結婚式や法事で遠い親戚に久し振りに会う礼装の小学生のように直立体勢から深々と頭を下げた。
「えっと……学校の先輩に紹介に預かりましたので、本を買わせて頂けないでしょうか?」
「え、ええ。どうもご丁寧に。まずは見本をご覧下さい」
 あまりの礼儀正しさに、サークルの人も少し固くなりながら、それでも本を紹介してくれる。
 机の上に積まれている同人誌は、『ひだまりスイッチ』『きら☆すた』『軽音楽!』『GA〜がんばれあたしたち〜』といった題材のもの。沙英の小説を掲載している『月刊きらら』を出している芳文書房が四コマ漫画系の雑誌をいくつか出しているため、ゆのもいくつかの題名に心当たりがあった。
 見本のページをそっと開くと――、

 
 自分の将来に不安を抱える佳奈を、後ろから優しく包み込むかおり。
(いいなぁ。でも、かおりちゃんってこんなキャラだったっけ?)

 
 いつもはだらけている瞳に涙を浮かべ、いつもの厳しさを抑えた母性溢れるかがりに抱き締められるそなた。そして――優しい口付け。
(うわ〜〜〜〜っ!?)

 
「澪子は私の嫁!」と断言して澪子に殴り倒される律子。うんたんは目を輝かせて、たくあんは動画を撮影しながら鼻血を流していた。
(ああああああああ!?)

 
 睦月は絵の課題ができずに呻き、ミキノダや兼友が場を掻き回し、奈四子が突っ込み、ジョキョージュはやけに超然としている。
(ああああああ…………って、これはいつも通りだ)

 
 最後の一つでちょっぴりクールダウンしたゆのは、それでも興奮が抑えきれず、身を乗り出して感動していた。サークルの人が少し引くくらい。
「すっ、凄いですねっ!」
「え、えーと、一応は全年齢推奨のつもりですけどっ! 佳奈とかおりも、そなたとかがりも、律子と澪子も、百合表現はソフトに抑えたんですが!?」
 何を誤解しているのか言うまでもないが、やけに赤くなって声を上ずらせる眼鏡の子。というか、この女の子が同人誌の描き手のようだが、十八歳未満で十八歳未満の閲覧を遠慮させて頂くような代物を描いているのだろうか。
「そ、そうじゃなくて、創作に注ぎ込んだエネルギーが凄いですねって……。実は私、こちらの友達と一緒に、高校の美術科に通ってますので」
「へぇー。やっぱりお友達とは、佳奈とかおりみたいなコンビですか?」
「い、いえそんな。佳奈は背が高いし、かおりは元気で才能もあるけど、私はどっちの取り柄もないし」
「ゆのっち」

 
 自信持って。

 
 ゆのっちの絵がとてもいいって事、私は知ってるから――。

 
 なんて口には出さないけど、ゆのと宮子の心の絆は、しっかりと気持ちを伝えていた。
 お互いにあまりべたべたしない、どちらかというと男子のようなさばさばした感性を持つ二人。だからこそ、あえて触れない部分に心が通い合い……。
「宮ちゃ――」
「くはぁっ!? リアルの女同士の友情!! これは先輩達に報告しないとっ!!」
 丸眼鏡の子が興奮して、開いたスケッチブックにゆのと宮子の姿を猛烈な勢いで(脚色を入れながら)スケッチし出すが、おさげの女の子から頭の頂点にチョップを喰らい、頭を抱えながら現世復帰する。短時間なのに二人の特徴を見事に捉えている高度な技術に、ゆのはまた劣等感を抱きそうになってしまったが、そこで何とか踏みとどまる。
(宮ちゃんもいるのに、いつも落ち込んでなんかいられないよねっ)
 落ち着いて自分達をデッサンしたスケッチブックを見ると、途中で止まってくれた功もあってか、デッサンの重要点が分かりやすく、遅筆気味のゆのにとって改善の糧となりそうな点をあれこれと教えてくれた。
「買いに来てくれた人の前で暴走はやめなさい。じゃ、そろそろ私は行くから」
「す、すみませんっス。で、どれかお買いになりますか?」
 と、眼鏡の女の子は遠慮気味に言ってくれるが――ここまで読んで、感動して、買わないなどという事はありえない。
 もちろん。
「全部ゆのっちに下さい!」
「えええええ!?」
 まあ、結局ゆのは宮子と折半して買ったわけですが。ついでに、ゆのと宮子が眼鏡の子を(宮子も普通に)デッサンしてあげたお礼に、眼鏡の子のデッサンもある程度仕上げてからおまけに貰ったりして。


――12:20 東京国際展示場、西地区屋上展示場――

「というワケでね、乃莉っぺ」
「無茶しますねー宮子さん……。もしかしなくても、昼食をゆのさんに奢らせるのはそのせいですか」
「はっはっは。おかげで今日の食費が払底致しまして。やっぱり二千円の出費は痛かったですなぁ」
「あははははははは」
 能天気な口調とは裏腹に切実な宮子の言葉に、乃莉は引きつった笑いが止まらない。
 乃莉のコミケ予算は、多めに見繕って、三日間で一万五千円ほど。地元からでは交通費と友達との諸々だけで二万円近く嵩んでいたから、これくらい奮発しても当然だと思っていたが、やはり趣味に関しては金銭感覚が麻痺するらしい。
 あちこちのサークルを満足するまで回り、東地区を後にした三人は、エントランスホールから一旦外に出て、駅やバスターミナルに通じるデッキ部分と同じ高さの二階部分から長い階段を行列に入って登り(乃莉は「こんな状態を想定して強度計算してるんでしょうか?」とか呟いてゆのを恐怖に陥れていたが)、西地区の屋上にある屋上展示場に出ていた。とはいっても全面が屋上ではなく、同じ高さに四階の西地区3・4ホールもあり、そちらに企業ブースがある。今回の企業ブースには芳文書房が出ていて、『月刊きらら』関係のグッズが出ているから、もしかしたら沙英(ペンネーム:橘文)の関連グッズもあるのではないかとゆの達は期待しているところ。
 屋上展示場の一角にあるコスプレ広場では、当たり前だけど大勢の人がコスプレをしている。ゆのが知っている作品のキャラクターもいて、あちこち見回して衣装や小物の出来に感動するのだが、乃莉も宮子もコスプレにはあまり興味がないらしく、ゆのを置いて行きそうになっては、歩調を緩めたり立ち止まったりで微調整をしていた。
「凄いなぁ。吉野屋先生みたい」
「吉野屋先生はコスプレのつもりはないらしいけど、私みたいな普通の人だと、バスガイドやナースの格好を普段着にするつもりはないなー」
「……自覚のないトコは、宮子さんも吉野屋先生と同じですよね」
 宮子も乃莉も容赦がないが、こんな暢気な事を言えるのは、吉野屋先生がコミックマーケットに足を運ばないと知っているから。本人は「そっ、そんな事になったら、次の日からアイドルにされて教師できなくなっちゃいます!!」とか言っていたが、乗り物酔いが激しくて電車やバスに乗れないか、頻尿で待機列に並べないかだけだと宮子は思っていた。
「私だったら、どんなキャラクターのコスプレが似合うと思う?」
「ゆのさんに似合うコスプレですか……。『ひだまりスイッチ』の佳奈とか、『きら☆すた』のひーちゃんとか、『軽音楽!』のうんたんとか? それとも『がんばれあたしたち』の睦月とか」
「……乃莉ちゃんの中の私のイメージって……」
 先輩相手にも容赦ない乃莉のイメージに、ゆのはがっくりとうなだれる。細かい点が気になる完璧主義者の乃莉には、良子とかかがりとか澪子とかの方が共感できるだろうから。
「ああ、でも佳奈もひーちゃんもうんたんも睦月も、ゆのさん以上の天然ですけど、純真で努力家で、そんな嫌いなわけじゃありませんので――」

 
 ごおおおおおお――。

 
「――!?」
 不意に空に響き渡る、ジェットエンジンの轟音。朝から飛び回っていたヘリコプターの音には慣れていたが(あと、マスメディアの報道方針から不祥事までにあれこれ愚痴を流す乃莉にも)、さすがに耳を聾するこの大きさにはゆのと乃莉は驚き、宮子は超然としていたが、空の一点をじっと見詰めていた。
 宮子の視線の先にあるのは、ジャンボジェット――ボーイング747。四百人以上を乗せる事が出来る大型機だった。乃莉は東京の地図を思い浮かべて、何でこんな近くをジャンボジェットが飛んでいるのか考える。
 ここは江東区有明。この辺りは埋立地で、江東区と港区と品川区が陸上で接している。海に向かって右手には八潮や大井埠頭があり、その先は京浜島、そして多摩川の河口を挟んで川崎市の浮島に向かい合うのは――、
(あー、羽田空港か!)
 そういえば――いつも気にしていなかったが、確かに、駐車場にいた間も、結構な頻度でジェット機を見た覚えがある。きっとあのジェット機も、羽田空港で離着陸していたのだろう(実はヘリコプターも新木場にあるヘリポートから離着陸しているはずなのだが、さすがに乃莉もそこまでは知らない)。
 離陸したばかりで高度を上げていたジャンボジェットは、やがて高度も安定して、ほぼ水平な飛行へと移る。猛禽類のような宮子の目には、主翼のフラップを収納した所まで見えたかもしれない。
 そしてジャンボジェットは、ごおっ……と音を立て、そのまま旋回して、水蒸気が立ち込める薄曇の夏空の彼方へと飛び去った。
 感慨深げにジャンボジェットを見送った宮子は、遠い――本当に遠い目をして、自分に言い聞かせるような声で囁く。
「懐かしいなぁ。駐車場に並んでた時も思ったけど、まるで天神みたいだよ」
「てんじん?」
「ゆのさん、天神は福岡市の中心部です。電車やバスのターミナルがあって、とらのあなやメロンブックスの支店も――それはさて置き、宮子さんはよく知ってるんでしょうね」
 乃莉の問い掛けに、宮子は小さな男の子のようにこくりと頷く。
「福岡空港は市街地のすぐ近くにあってねー。だから福岡の中心部は高い建物がなくて、時々真上をジェット機がごーって飛んでるんだ」
「お、落ちそうで怖いよね!?」
 頭上をジェット機が飛ぶ光景に、想像するだけで恐怖が極限に達するゆの。なずなに負けないほどがくがくぶるぶる震える小さな先輩の様子に、乃莉の心には疑念が生じる。
「ゆのさん――もしかして、飛行機が飛ぶ原理を理解できないとかいうわけじゃないですよね? いいですか。飛行機が飛ぶ原理は、レーシングカーが飛んでしまわない原理と表裏一体で――」
 何故わざわざ難しい言い方をするのかはさて置き、ゆのは震えたまま涙目で首を横に振る。
「う、ううん。わ、私、足元が危険な所が苦手でっ。サンシャイン60とか富士山とかならいいけど、東京タワーとかレインボーブリッジとかロープウェイとか飛行機とかは絶対ダメ!」
「東京タワーに何の危険があるんですか。しかも高層ビルなら大丈夫って、ゆりかもめですらダメな高所恐怖症とは違うみたいですし……って、宮子さん?」
 黙って空の彼方、飛行機が飛び去った方を眺める、いつもは元気に満ち溢れているのに、今はやけに静かな宮子。
 宮子の頬を伝うのは……一滴の涙。
「宮ちゃん――まさか福岡が懐かしいとか?」
「いやー、帰省に高速バス使って往復で二万七千円使ってるから、ゆのっちにも買ってもらったり、乃莉っぺにも奢らせてもらう予定でホントにごめんね」
「勝手に決めんで下さいよっ!?」
 あまりの興奮に訛りが出てしまう乃莉。こーいう時には無神経な宮子は、調子に乗って乃莉の神経を余計に逆撫でしていく。
「お礼は身体できっと返すから。ヌードデッサンには沙英さんより描きやすくてヒロさんより描きにくいから、中級レベルには丁度いいよ?」
「いりませんっ!」
「あ、あのっ、無茶言わないで宮ちゃんっ!? 乃莉ちゃんも落ち着いてー!?」
 ……混迷を深める三人が、周囲の人垣に気付いて矛先を納めるのは、もう少し後の話だった。


――13:00 東京国際展示場、西地区3・4ホール――

 それから。
 西地区3・4ホール内の芳文書房のブースにたどり着くまでは、屋上展示場の各所を埋める行列で三十分以上の道のり。さすがにデビューから二年ほどの橘文先生の作品は、ヒット作の二次創作アンソロジー集しかなかったが、それはそれで面白く、乃莉は友達の分まで買い込んでいた。

 
「あああああ。乃莉だけじゃなくてゆのと宮子まで来てるなんてええええ!?」
「まあまあ。沙英ちゃんのメイド服、似合ってるわよ♪」
 という、沙英と、担当編集者の直居さんのやり取りがブースの裏手であった事は、ゆの達は知らない。
「漫画家さん達はサークル活動してる人が多いから、沙英ちゃんがサークル活動してなくてホントに助かったわ。――また年末もお願いね?」
「ってちょっと! 冬コミの時は受験目前ですから!」
「残念ねえ……橘先生のメイド姿、あちこちのブログで好評なのに」
 何が残念なのかはさて置き、直居さんの意外な趣味に沙英はがくりと肩を落とし――、
「それじゃ次の夏コミで、今度は執事服って事で。これで女子のファンも増えるわよ」
「ええええええ!?」


――14:40 東京近郊、某鉄道車内――

「いやー、創作に懸けるエネルギーをたんと吸収させてもらいましたなー」
「な、何と言うか、その、凄かったね――色々と」
 満喫しきった宮子と、まだ興奮の余韻が冷めないゆの。さすがに閉場まで目一杯居続けるほどの体力と気力(と財布)はなく、会場の外でご飯を(宮子はゆののおごりで)食べてから、電車で家路を目指していた。
「ウチに着いたら、ヒロさんとなずなちゃんに見せてあげようね」
「ヒロさん、話を聞いた時は『お弁当を作ってあげなきゃ!』なんて張り切ってたもんねー。ヒロさんは朝に弱いから止めといたけど」
 ゆのと宮子は四コマ系の同人誌を買い込んで、膝の上の袋一杯に抱えている。特に宮子は早く読み返したくてうずうずしていたが、乃莉に「同人誌は家に着くまで鞄から出さないで下さいね。ああ、それにしても、エロゲーの紙袋を堂々と持ち歩く男子――だけじゃなくて青っぽい長髪のゆのさんより小さな中学生っぽい女子も――の気が知れませんよ」と言われたので、大人しく鞄に突っ込んだままにしていた。
 乃莉は秋葉原のとらのあなやメロンブックスやCOMIC ZINで大手を中心に同人誌を補填してからミホコ達と打ち上げに行くため、会場を出たところで別れた。「今日は平日ダイヤだから大人しく東京駅までバスだけど、明日は休日ダイヤだから正門駅前から急行の森下行きに乗って、そこから地下鉄で岩本町へ」とか呟いていたが、そこで「岩本町から秋葉原までどうやって行くの?」と聞いたら、「歩きで十分ですよ」と言われて余計に混乱したゆのだったりする。一応注記しておくと、岩本町は秋葉原から神田川を挟んですぐの地区で、岩本町駅を降りて橋を渡ると、すぐそこにJR秋葉原駅昭和通り口と地下鉄秋葉原駅があるのだが。
 あと、別れ際に乃莉は――、
『『ひだまりスイッチ』の本は、一日目はアニメ、二日目は四コマ漫画、三日目は男性向けの所にありますからね。体力とお財布が許すなら、連日行ってサークルを見るといいですよ? サークルのウェブページを見たいんでしたら、私のパソコンから見れますんで声掛けて下さい』
 ――と言っていた。
「では、明日も明後日も夜明け前に出陣ー!」
「やらないよ宮ちゃんっ!」
 張り切る宮子。叫ぶゆの。開場したばかりの十時過ぎに東駐車場に並べば、よほど買い込みたい物があるか、大手サークルを巡りたいかでもない限り、まず買いそびれる事はないが、それでも元気の有り余る宮子には満足できない模様。
「それに宮ちゃん、本を買うお金はどうするの?」
「ダイジョーブっ。乃莉っぺに頼まれたサークルの本を買う代わりに、軍資金を乃莉スケさんに奢ってもらいますからっ」
 乃莉に対する呼称を相変わらず安定させずに、堂々と(元から大きな)胸を張る宮子に、ゆのは頭を痛め……。
「あああ。他力本願なんだからもう」
「ゆのっち、他力本願とはそういう意味ではありませんぞ。そもそも他力本願とは、『自分だけで何でもできる』という自力への驕りを捨て去るというもので、阿弥陀仏の本願である四十八願の第十八願に曰く」
「わわわ、分かったから宮ちゃーんっ!?」
 この後も電車が駅に着くまで、ゆのは延々と他力本願について文字通り「説教」される羽目になる。


――20:30 緑市浅葱町、ひだまり荘201号室――

 ちゃぽん……。

 
「ふぅ〜〜っ。充実した一日だったなぁ」
 いつもの如く入浴剤入りのお風呂に浸かり、しっかりと足を伸ばすゆの。普段は小柄でめりはりに乏しい自分の体躯が好きでなかったが、こんな時だけは例外。
「ヒロさんとなずなちゃんも一緒に本を見て、みんなでご飯を食べて、インターネットで感想のメールを送って――」
 そこでちょっぴり憮然としたゆのは、身体をより深く浴槽へ沈めて、顔を半分お湯の中へ入れる。
(――まさか、成人向けの本をホントに描いてるとは思わなかったけど)
 ゆのは、選択授業の平面でヌードデッサンもしているから、裸を描くのが人物画に重要だと理解できる。だけどまさか、あの純真そうな子が、ヌードに留まらずあんな事やそんな事まで描いていたとは信じられなかった。
 まあ、そんなちょっとした事は忘れよう。ゆのも明日と明後日の事を考えるだけで精一杯なのだから。
(お風呂を上がったら、目覚ましを合わせて、朝御飯と軽食を用意して、必要な物を枕元に揃えて、それからそれから)
 あれこれ考えながら、ゆのはいつものように、音程が完全に外れている鼻歌を浴室に響かせる。防音設備があるわけでもないのでひだまり荘全体に垂れ流しのはずだが、女の子同士の気安さだろうか、それとものんびりした性格の子が多いのか、別段誰も気にしてはいなかった。
「ふ〜ふ〜ふふふ〜ん♪」
 まるで遠足の前日気分。
 こんな日があと二日続くと考えただけで、お湯の中で伸びをしながら、浮き立っているゆのの心。
 ……と、そこで、乃莉から、部屋に戻る前に受けた注意を思い出す。
『明日と明後日も気を付けて下さいね? ミホ達からの情報によると、今年は国擬人化シリーズと弾幕系シューティングゲームの影響で、普段より大幅に混雑が想定されとりますから。増える分は初心者が多いと思いますんで、人の流れの手際も悪化するはずですし、入場制限解除も正午を回るかもしれませんよ』
(今日以上に混雑って〜〜?)
 ちょっと長湯によるのぼせも入り、ゆのはくらくらしながら頭をお湯から上げた。


――翌日11:00 東京国際展示場、東地区6ホール――

「〜〜〜〜♪」
 更に混雑した翌日が過ぎ。


――その翌日11:00 東京国際展示場、東地区6ホール――

「ああああああああああああああああ!?!?」
 そして混雑が頂点に達した二日後、ゆのは、「男性向け創作」の区域で(しかも、サークルには一日目の眼鏡の子がお兄さんの手伝いで入っていた)、激しく悶絶する事となるのは言うまでもなかろう。
(終)


・話の中の諸々の事象は、2009年8月頃をモデルにしています。
・本を売っていたサークルは、『らき☆すた』の田村ひよりのサークルをモチーフにしています。


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