□デバイスレイン、西へ!□

阿黒さん作のSSです。以上(おい)。


 ども、阿黒です。
 考えてみると大橋さんのトコにはSSを投稿したことがないので、こちらにお送りすることにしました。
 デバイスレインのSSで、タイトルは「デバイスレイン、西へ!」
 とりあえず出発編の(1)(2)を送らせていただきます。多分次の(3)で完結するとは思いますが、頭の中ではある程度形にはなっているものをなかなか文章にする時間が無くて。まあ、できるだけ近いうちに完成させたいですが。
 それでは。

(1) (2) (3)


――(1)――

「慰安旅行?」
「一応は研修という名目だが、まあ実質的には単なる宴会だ」
 園宗寺要はくだらなそうに端末の画面を見つめた。ダイス日本支部からの、幹部専用回線を通じて発信されたメールを見ながら言葉を続ける。
「まあ、年頭に組んでいた恒例の行事だからな。しかし熱海の…東鳩屋?温泉とはまたオヤジくさい…」
「どうせ御子柴の趣味でしょう」
 ダイス日本支部長をあっさり呼び捨てる忍を、苦笑未満の感情を覚えながら園宗寺は見遣った。ちょうど自分と10歳違いの少年の生真面目な顔には、軽侮の色が浮かんでいる。
「そんな無駄なことに割く時間なんか、あっても使いたくないですね」
「ま、それはそうだが…たまにはこういう息抜きも必要だろう」
「園宗寺さん参加されるんですか!?」
「何を驚いている。お前も同行するんだぞ」
「はぁ!?」
 傍らに立つ忍の方へ、卓上の画面を向けてやる。
「いちおう名目上はオーギュメント対策会議だからな。デバイスレインの一人として、当然忍も頭数に入っている」
 日本支部最大機密であるイデア兵器。開発が頓挫しているとはいえ、オーギュメントは現在主流を占めている「ディゾナント」を大きく凌駕する能力を持っている。イデア理論の提唱者であり開発の中心であったアインハルト博士が故人となり、研究員が大量脱走した現在、オーギュメントは試作品として作られた12基しかこの世に存在しない。
 霧生忍はその貴重なオーギュメント使い――園宗寺と同じくデバイスレインの一人である。
「しかしですね園宗寺さん」
 珍しく自分に反論してくる忍に、今度は苦笑を表に出しながら園宗寺は言った。
「休める時には休む。それも任務の内だ。…忍、温泉は初めてだろう?温泉はいいぞ」
「…ひょっとして、温泉好きなんですか園宗寺さん?」
「嫌いじゃないな」
 16年というこれまでの短い人生をダイスの戦闘工作員としてのみ訓練されてきた少年に、そんな「普通の経験」は無い。園宗寺は必要なら冷酷にも厳格にもなれるが、必要以上にそれを行使するほど冷たい人間ではない。自分に忠実な者、慕ってくれる者に対する優しさはある。
「…どうした忍?」
 怪訝な表情で自分の背後…窓を見ている忍の視線を追って、園宗寺は振り返った。が、銀座の街並みが見えるだけで別に不審なものは…
「…は?」
 一瞬、自分が何を目撃したのか理解できずに、そんな意味のない声を園宗寺は漏らした。下から上へ向かって、二つの人影が過ぎったような。
 ここは銀座、園宗寺が管理するダイス子会社ビルである。その4階、重役室。たかが4階とはいえ、人影なぞを見る高さではない。常識的に考えれば。
「園宗寺さん伏せて!」
 唐突に忍に腕を引っ張られ、園宗寺はほとんど投げ飛ばされるような勢いでデスクを越えた。忍はそのままそれなりの重厚さを持つデスクを盾にするように園宗寺を床に伏せ、更にその上から園宗寺を自分の身体で庇う。
 ほとんど同時だった。まるでそれを見計らったようなタイミングで、閃光と爆音、そして窓の強化ガラスの破片が室内に吹き荒れた。
「畜生…!」
 忍が呻く。窓を過ぎった影が窓ガラスに何かを貼り付けていったのだ。そのちっぽけな、粘土のような塊がプラスチック爆弾だと気づいた時、徹底的に訓練された身体が頭で理解するより早く行動をとっていた。さもなくば、園宗寺さんに怪我をさせてしまっていただろう。
 そのことに怒りと、何より恐怖を覚えながら忍は常に傍らに置いているアタッシュケースを開いた。中には彼専用のオーギュメント…「パペット・クロウ」が納められている。それは一見して中世騎士の金属鎧の腕部、ガントレット(籠手)によく似ていた。指の先端部がどこかまがまがしい、鋭利な鍵爪になっていることを除けば。
 園宗寺も黒コートの内側から銃型オーギュメント「ジ・オーディナンス」を抜き出す。イデア兵器が共通して持っている能力…SC空間を展開すれば、この「結界」内ではオーギュメント使いでなければ自己の存在を確定させることもできない。核の直撃すら、この空間では意味を失う。
 とっ。
 そんな軽い音がした。ふわりと空気が動いたような気配がする。
「いやいやいや、ちょっとやりすぎちゃったかな?すまんね、園宗寺」
「J・B!?」
 ガラスが無くなった窓枠を越えて、一人の男が軽薄な笑いを二人に向けた。白く脱色した髪の下で、ゴーグルが外光を僅かに反射させる。
 右手の剣型オーギュメント「クイーン・デッド」に僅かに視線を向けた後、園宗寺は埃を払って立ち上がった。その半歩斜め後方に、無表情を装った忍がさりげなく控える。
「おやおや、忍くんなんだか随分ご機嫌ななめのようだね?朝食はちゃんと摂ったのかい?お腹が空くと、人間怒りっぽくなるからねぇ」
「そんなくだらないことを言うために、わざわざ窓をぶち抜いたのか貴様はっ!?」
「いやだねアメリカン・ジョークを解さない輩は」
「アメリカ人が聞いたら怒るぞお前…」
 うんざりしながら園宗寺は室内に入ってきたJ・Bを見つめた。年齢はおそらく自分と同じくらいだが、古い表現を使えば文武両道を、しかも高い水準で兼ね備えたフリー・エージェントだ。が、腹に一物を秘めた曲者である。
「で、うちのビルの窓を爆破するのもジョークなのか?」
「いや、なんとなく意表をついてみたくって…おもしろいだろ?」
 無言で園宗寺は馬鹿をはり倒した。
「しかし、さっきはもう一人いたような気がしたんだが」
 割れた窓に近づいた忍の眼前を、またも人影が落下していった。
「ドヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャーーーーーーァツ!」
 そして、また上昇していく。何やらその人影は、黒コートに身を包んだ包帯ぐるぐる巻きの殺人狂に見えた。
「ウホホホホホホオホホホホホホオホーーーーーーー!!」
 しばしの沈黙のあと、思い出したようにJ・Bが口を開いた。
「ああ。ウツロの奴、うまくこの部屋に飛び込めないでいるみたいだな」
「お前ら一体うちのビルで何やってるんだ!?」
「話せば長いがかいつまんで言うと、スポーツ開発部の新商品「ステキにムテキなスカイパラダイスDIEビング〜江戸主永・バンジー君」のテストを頼まれてな」
「どこの馬鹿だ工作員にそんなもんのテスト依頼した奴はーーっ!」
「御子柴さんに直々に頼まれたんだが」
「チクリ帳」と書かれた手帳に何やら書き込みながら、あっさりJ・Bが答える。
 ひたすら頭痛をこらえる表情で、園宗寺は半ば義務的に問い質した。
「つまりなにか?くだらんスポーツ用品のテストを兼ねて、私の意表をつくためにわざわざオーギュメント使いがうちの窓を爆破したということか?」
「壮大な人材と経費の無駄遣いだねぇ」
「お前が言うなお前が!」
「どひゃひゃひゃはやーーーーーーーーーーーっ!」
「ええい、やかましいっ!」
 忍の右手が一閃した。パペット・クロウの鋭い刃がバンジーのゴム紐をあっさり切断する。
 ひょおおおぉぉぉぉぉ………ぐしゃっ。
「…忍くん…」
 しばしの、痛いほどの沈黙の後、J・Bが、言う。
「いくらなんでも、さすがにそりゃー、洒落にならないんじゃないか?」
「いくらウツロが無痛症だからって、不死身じゃあないんだぞ?」
 園宗寺だけを見ながら、忍は達観したように肩をすくめて答えた。
「夜になったらそこの工事現場にセメントもっていきますから、安心してください」
「いや、だからそういうことじゃなくて…もういい…」
 なんとなく、幾ら言っても無駄なような気がして園宗寺が口をつぐんだ時である。
「イタクナーイ!」
 ひげ剃りのCMに出てくるスキンヘッドの某K−1選手みたいな口調で、ひょっこり窓からウツロが顔を出した。どうやら壁面に爪を立てて登ってきたらしい。
 非常識な男である。
「ゲヒャギャヒャガギャ、ぐへっ。忍、おめーもちっと常識をわきまえろ」
「お前が言うなっ!!」
 三人が異口同音につっこんだ。
「ったく。まあいい、それじゃそろそろ本題に入るとするか」
「…長い前ふりだったな」
「まあそれはともかく。今度の温泉旅行のメールは届いてるだろ?一応、御子柴さんとオーギュメント使いのみ参加予定なんだが」
「…その事だが、今この時期に、僅かな間でも東京を離れるのは問題じゃないのか?」
 横から口を出してきた忍に視線を移して、J・Bはまるで物わかりの悪い生徒を指導するような口調で話し始めた。
「俺達が相手をしているのは、オーギュメントを持っているとはいえ、人間の、高校生だ。別にエイリアンを相手にしているわけじゃない。同じ人間である以上、ある程度の行動の予測はできる。今この時期に事態が急変する可能性はまず無いさ。
 なら、生真面目にここで情報待ちをしていようが、2,3日温泉でゆっくりしようがさして変わりはないじゃないか。人間、たまには息抜きをしないとへばってしまうぞ。
 陳腐な言い方だが、100メートル走のペースでフルマラソンを完走できるわけないんだからな」
 決して納得してはいないが、効果的な反論ができずに沈黙する忍を、ややおもしろそうに見ながら園宗寺も頷いた。
「で、本題はなんだJ・B?」
「なに、単純なアンケートさ。どうせ参加するなら楽しまなきゃ損だからね、事前に希望があれば承っておくよ」
「別に希望といわれてもな…そういえば、壬生も参加するのか?」
 ウツロと並んで御子柴直属のオーギュメント使い。それが壬生という男だった。30半ばの歴戦の傭兵で、その実力には園宗寺も一目置いている。もっともプロということは、決して侮れないがある程度はその行動を予測できるということでもある。ウツロのように、何をしでかすかわからない爆裂弾のような危険さは無い。
「当然。本人、嫌がってたけどね。口には出さないけど」
 無言で頷いている忍には気がつかないふりをしつつ、J・Bは話を進めた。やや口調を改めて、言う。
「園宗寺。君は、女体盛りというのをどう思う?」
 ぴしり、と園宗寺の表情がひきつった。忍が沈黙を守っているのは、単に女体盛りという単語の意味を知らないからである。
「いやー、御子柴さんのたっての願いでねー。今回の企画の理由の、半分近くはこれをやりたいからじゃないのかな?嫌だねオジサンは」
「…一応聞くが、まさかそのくだらん企画に賛同してるわけじゃあるまいなJ・B?」
「宮仕えの悲しさで、既に賛成票が3つ、入っているが」
「壬生もかっ!?壬生まで賛成してるのかっ!?」
「いやぁ、あのオッサンもあれで意外と好き者だねぇ」
 この瞬間、園宗寺の脳裏で「カナちゃん人材評価リスト」の壬生の点数が−5された。もはやJ・Bを一顧だにせず無言で部屋を出ていこうとする園宗寺を、慌てて忍が追いかける。
「ち、ちょっと園宗寺さんどこへ?」
「日本支部だ!御子柴に直談判する。ついてこい!」
「それはもちろんですけど…あの、園宗寺さん。女体盛りって…何ですか?」
 ドアノブに手をかけたところでピタリと止まり、首だけ振り返って園宗寺は「彼女」の忠実な部下を見た。
「忍。私の前で二度とそのけがわらしい言葉を口にするな」
「は、はひっ!?」
 絶対無比の忠誠の対象に、なにやらおどろおどろしい不気味な迫力を感じ、忍は思いきりたじろいだ。
 珍しく、荒々しい音を立てて部屋を出ていく園宗寺たちを見送って、J・Bは皮肉な笑みを浮かべた。園宗寺のこの滑稽な姿を見物できただけでも、足を運んだ甲斐があったというものである。
「終わったゾ、J・B」
 何やら園宗寺の端末でごそごそやっていたウツロがくぐもった声を上げた。彼は御子柴の命令でここに盗聴器をしかけていたのである。
 したり顔でそれを命じた御子柴の顔を思い出すと、冷笑を禁じえない。この程度の仕掛けに気づかないような園宗寺ではあるまい。仮に気づかなかったとしても、本当に重要な事柄は絶対にその種の危険が排除された場所でしか口にしないだろう。園宗寺も霧生もその辺のことは徹底している。
「さてと。とりあえずこちらはすんだから、次はあっちの方の仕掛けだな」
 何かのチケットを手に愉快そうに笑うJ・Bを、無感情な瞳でウツロは眺めた。


――(2)――

「…あー、腹減ったなー。一体理子ちゃんたち何やってんだー?遅すぎるぜ?なあ十夜、そう思わねーかー?」
 誠志郎の愚痴がキッチンから絶え間なく続いている。がさごそという物音の副音声は、とにかく何か口にできるものがないか探しているからだろう。人の部屋だというのに何の遠慮もない。もっとも、誠志郎は遠慮とか控えめとか慎ましさとか、そういったものを最初から持たずに生まれてきた男だと十夜は断定している。
「まだ一時間も経ってないじゃないか。買い出しがそうすぐに済むわけないだろ」
 雲野十夜は彼専用のオーギュメント「セイクリッド・デス」のオーパスを組み替えながら気のなさそうに、しかし律儀に三度目の答えをしてやった。今時の高校生としては珍しくもない茶髪。東洋人種が髪を金や赤に染めても、基本的な造形ラインというものが合っていないのだから、大抵はバッタモンかニセ外人、頭の悪そうなチンピラ程度の外観にしか仕上がらない。が、十夜はそういった「傾いた」スタイルが良く似合う、数少ない例外の素質に恵まれていた。
「まさかと思うが理子ちゃんとカスミ、二人だけでどっかのファミレスとかに行ってるんじゃないだろうな?」
「お前よくそんな情けない疑惑をもてるな。そんなわけないだろ」
 結局、配列を選べるほど豊富にオーパスが揃っているわけでもない。宝石のように輝く金属結晶体をしまうと、丁度部屋に入ってきた誠志郎に向き直った。
「…何やってんだお前?」
 僅かな間を置いて、十夜はそう尋ねてみた。柊誠志郎は、まああまり認めたくはないが一応自分にとっては相棒と呼んでしかるべき存在である。たまに首を絞めたくなる衝動に駆られることもあるが。
 丁度、今自分の中でふつふつと沸き上がる感情のように。
「いや、だって腹へってさ」
 マヨネーズを直接容器からチュウチュウと吸いながら、駅前でもらうサラ金のポケットティッシュ並に軽い口調で、誠志郎はそう言ってのけた。人の五倍は喰うくせに一向に肥満の徴候すら見られない、すっきりした長身と外観の持ち主である。黙って立っていれば二枚目半といった容姿で、騙される女もいるだろうが。
「十夜、なんかゲームあるか?とにかく気を紛らわさないと腹減ってしょうがねー」
「勝手にやってろよ」
 つきあう気にもなれず、いかにこの男と縁を切れるか後ろ向きな思案に暮れる十夜に構わず、誠志郎は部屋をぐるりと見回した。
「しかし何処に何があるかわかったもんじゃねーなこの部屋は。っつーかおめーんちはよ」
「押し掛け居候が家主に文句つけんな」
「理子ちゃんやカスミだって驚いてたじゃねーかよ」
 十夜は、自分の趣味はウィンドウショッピングだと公言している。誠志郎は別にそれを否定する気はないが、とりあえず注意を引いた代物を衝動的に何でもかんでも考え無しに買ってしまうのはどうだろうか、とは思う。しかも買っただけでほとんど放りっぱなしというていたらくのため、部屋の中は床が見えないほど物が積み上げられ、座る場所を確保するだけでも苦労する。しかも用を為さないがらくたでも十夜はなかなか捨てようとしない。誠志郎に言わせれば自分の大食いなぞより余程たちが悪い。
 しばらくあちこち部屋を発掘していた誠志郎は、ようやくゲーム機のコントロールパッドを発見した。更にコードをたぐってゲーム機本体を掘り出す。
「…おい、十夜」
「なんだ?」
「こりゃー、なんだ?」
「PC−○Xだが、それがどうした」
「…プ○ステやサ○ーンは?」
「どっかその辺にあるだろ?多分」
「おい、十夜」
「なんだよしつこいな」
 ひとつ深呼吸して、誠志郎は怒鳴った。
「馬鹿かおめーはっ!」
「なんだいきなり!?」
「馬鹿で悪けりゃあほかお前はっ!PC−○XだぞPC−○X!お前何考えて生きていやがるんだ言ってみろコラ!」
「な…PC−○Xの何が悪い!!」
「きっぱりと悪いわっ!こんなもん買う奴はマニーだっ!ヲタクだっ!二次コンとロリコンを併発合併した社会不適応者のエロギャルゲーマーぐらいだこんなもん買う奴はっ!お前、もう、こりゃ人として最低のラインをあっさり越えちまってるじゃねーか!いっそ死ね!」
「お前、幾ら何でも言って良いことと悪いことがあるぞ!」
「じゃあ、お前これで何やってるんだよ」
「チッ○ちゃんキィィーーック」
「う・があああああああああああああああっっ!お前、その木っ恥ずかしいタイトルだけでもなんか間違ってるとは思わんのかーーーーーっ!」
「やかましい!未だにファ○コンとメガ○ラテレビに繋いでる奴にそんな事言われる筋合いは無い!しかもどっちも初期型だし!」
「そういうお前だって今でもPCエ○ジンDuo稼働させてるじゃねーか!」
「Duoじゃない!Duo-RXだっ!最新型だぞ!」
「いつの時代の最新型だーーーーーーーーーーっ!!」
「いいかげんにしなさいっ!」
 唐突に甲高い女性の声が間に入り、同時に後頭部を何かで張り倒されて二人の男は床に転がった。
「まったく二人してなに馬鹿な事大声で言い合っているのよ!エレベーターの所からでも聞こえてきたわよ恥ずかしい!」
 エレベーターから部屋まで全力疾走で殺到し、二人の男を殴り倒した彼女――空木理子は肩で息をしながら彼女のオーギュメント「ヘヴンズ・キー」を折りたたんだ。キリストが12使徒の一人ペテロを自分の代理として初代教皇に定めた時に授けたという厳粛な品がソースとなっている割に、粗暴な扱いである。
「んなこと言ったってよ理子ちゃん!このバカ、PC−○Xなんか持ってるんだぜ!?こいつとはつきあい長いが、こんなヤローだとは思っていなかったぞ…男として、人間として、なんか許せんものがあるんじゃねーか?そう思うだろ理子ちゃん!?」
「あ、あのねえ…そんなこと言われても全然わからないんだけど…で、でもまあ、○X?それを持っているからってそんな非難されるようなことじゃないと思うわ。個人の嗜好というものがあるんだし」
 空木理子、23歳。MITを飛び級で卒業し、故アインハルト博士の片腕としてオーギュメントの開発を指揮した才女だが、PC−○Xのことはよく知らない。
「あ、理子ちゃんは十夜の肩を持つのか。ひでーよな。親に勘当されることはあっても、理子ちゃんだけは俺に味方してくれると信じてたのに」
「いや、だから…ちょっと、なにイジけてるのよ!もう拗ねるような歳でもないでしょ」
 わざとらしく壁を向いて体育館座りで蹲った誠志郎に、困惑しながらも放っておけない理子である。このあたり、単純で子供っぽいというか。
「はいはい、すぐご飯にするから機嫌治しなさい。お腹すいてるんでしょ?」
「理子ちゃん、俺はメシさえ食ってりゃそれで幸せなヤローだと思ってんな?」
「違うの?」
「たりめーよ。傷ついたよ俺の繊細でデリケートなガラスのように脆いはぁとが。…でもまあ、理子ちゃんがそう思ってるなら、その期待には応えてやんねーとな。っつーわけで、俺大盛りな」
「…ハイハイ」
 一種、ラブラブ空間と表現できなくもない雰囲気を醸し出している二人に精神的にゲップをする十夜の後ろで、何かの気配がした。
「十夜くん、ただいま」
「おかえり、カスミ」
 振り返るとまず眩い色彩が目に飛び込んできた。父親の遺伝を示すようにきれいな長い金髪の端を手持ちぶさたにいじりながら、そこにカスミ・アインハルトが佇んでいる。故ヘルマン・アインハルト博士の一人娘。おそらく父親はダイスに事故死に見せかけて殺され、そして今また父親の開発していた「オーギュメント」とイデア理論の謎に何らかの関連があるとされてダイスに追われている。十夜と誠志郎は、そんなカスミを見捨てることができずにオーギュメントを手に、平凡で平和な普通の日常に別れを告げたのである。
「十夜くんは、いかソーメンとみかんラーメン、どっちが好き?」
 そういう自らが背負った重い運命とか宿命とか、なんかそんなものを感じさせないというよりわかっていないような御気楽な口調で極楽なことを聞いてくるカスミに、心持ちコケながら十夜は、とりあえず答えた。
「俺は、どっちかというといかソーメンかな」
 理子に言わせればこいつら全員、自らの立場と状況をイマイチ自覚していないのであるが。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「…温泉?」
「うん、そうだよ。商店街の福引きで当たっちゃったんだ」
 とりあえず、とろみのあるモロヘイヤのスープを一口すする十夜に、カスミはどことなく嬉しげに言葉を続けた。
「えーっと、熱海の…東鳩屋?一泊二日4名様ご案内、だって。いいと思わない?私、日本の温泉って一度行ってみたかったんだ。ほら、この地獄の血の池温泉っておもしろそう」
「…そ、そーかー?」
「おもしろいよ。他にも豚の血温泉とか牛の血温泉とか雌犬の血まみれ野郎温泉とか」
「カスミ。悪いがそれは絶対何か違うと思うぞ」
「他にもジャングル風呂とか打たせ湯とか砂蒸し風呂とか…このクールサウナって何だと思う?」
「単なる冷凍庫で客をフリーズドライにするんじゃねーかそりゃ?」
「で、結局カスミはどうしたいわけ?」
 ボウル一杯の大豆の煮付けを、口一杯に頬張りながら、誠志郎が明瞭に発声する。その横で理子が半分ほど食事を残しているのは、どうやら旺盛すぎる誠志郎の食欲に胸焼けしたらしい。
「え、えっと、…その」
 しょうがないな、という風に十夜は息をついた。
「行きたいんだろ?カスミ」
 しばしの沈黙の後。おずおずと、カスミは首肯した。
「でも、今の状況を考えると、やっぱり無理だよね。…だから、いいの。本当」
「…いいんじゃないの?一時的に東京を離れることで、ダイスの目を眩ませることができるかもしれない。うまくすればかなり時間が稼げるかも」
「温泉ってことは、やっぱ和食だよな。刺し身に天ぷら、鍋物に寿司…いいよなあ和食って」
「お前、この間イタリアが最高とか言ってなかったか?」
「しかもタダだぜ?素晴らしいよなタダ。ありがとうタダ。こういう時には神様って信じちゃうな、オレ」
「ビショップが聞いたら気を悪くぞ。…そうだな、やっぱここんとこ殺伐とした生活だったから、たまには潤いというものを求めたってバチは当たらないよな」
「そうそう」「そうよね」「じゃあ、そういうことで」
「良いわけないでしょ貴方たち!」
 今までずっと沈黙を守ってきた理子が、顔を真っ赤にしてわめいた。
「ダイスは私達を東京から出したくないのよ!?地方に潜伏されたらますます捜索が厄介になるし、いくらダイスでも全国各地にディゾナントを放つのはリスクが高すぎるし、物理的に不可能。だからそうさせないためにも、東京から出る交通機関には必ず監視がついてるはずよ」
「なに、幾らなんでも東京に出入りする全ての人間をチェックできるわけないだろ?」
「確実に監視の目が光っているところに近づくべきじゃないって言ってるの!」
 ひらひらと、誠志郎は手をふってみせた。
「だーいじょーぶだって!仮に見つかったとしても、どーせディゾナントだろ?なら楽勝。俺も十夜も、だいぶオーギュメントの扱いに馴れてきたし」
「あのねえ、何度も言うようだけどダイスを甘く見ないで!」
 理子も、ダイスが切り札であるオーギュメント使いを東京包囲編に配置しているとは思わない。その分配置されているディゾナントは拠点防衛用と同じく最精鋭だろうが、所詮ディゾナントは開発過程の中で早々に打ち切られた失敗作である。理子たち開発スタッフが脱走の際、オーギュメント及びその資料全てを破棄していったため、ダイス側は失敗作であったために資料破棄を免れたディゾナントを開発のベースとせざるをえなかったのだ。もっとも、その後ディゾナントがどのように進化したのか、理子は知らない。が、今までの幾つかの戦闘の中で、その単純な数の多さ以外にディゾナントを脅威と感じたことはなかった。
 だが、理子は園宗寺要が決して甘くみてはいけない人間であることを知っている。切れ者だとか有能だとか、そんな安易な言葉で括れるような相手ではないのだ。
 それは園宗寺の部下、霧生忍にも言える。オーギュメントの使用被験者として園宗寺から彼を紹介された時、理子とアインハルト博士は彼がまだ14,5の少年であることに驚いたものだ。その少年が当時の開発部の警備主任と模擬訓練を行い、自分より二回りは大きい相手を素手で打ち倒し、何の躊躇いもなく踵を顔面に叩き付ける光景に、驚愕と恐怖、そして嫌悪を覚えた。その警備主任はこういう暴力的な職業にありがちな、単純な武力崇拝者で尊大で嫌な男だったが、既に勝負はついたのに鼻骨を折る、というより粉砕されるのはあんまりだろう。訓練で、しかも同じダイスの人間であるのに。
 後で霧生は孤児であり、幼少の頃からダイスの戦闘工作員としてのみ教育されてきたことを理子は知る。そこでは日々の食事さえ、同じ境遇の「仲間」と争って手に入れなければならない。弱ければ餓死するのみという、そんな馬鹿げたことが今の日本で行われているとは信じがたい話ではあった。
 だが理子は信じた。その時の霧生の、何の感情も現さない、淡々とした顔を見たから。同時に、絵空事ではよく言われる社会の暗部を垣間見た。霧生のような人間を自社の利益のために育成し「所有」する、人間をモノとして見ることのできるダイスの暗部を。そして、戦闘のプロの認識と素人の甘さを。
 もっとも、先日霧生と望まぬ遭遇をした時、彼が随分感情を表に出すようになっていたのにはやや驚いたが。
「あなたたちもケンカはかなり自信があるみたいだたけど、仮に霧生と素手で…オーギュメント無しで戦うことになったら、2対1でも危ういと思うわ。そしてそういう人材がダイスにはそれこそごまんといるのよ。
 SC空間を展開する前なら、遠距離からの狙撃の一発だけで殺されてしまう、ってことも考えてちょうたい」
 自分が慎重を通り越して臆病になっているのではないかという危惧はある。だがこの一年近い逃亡生活で、自分が今尚生き延びているのはその臆病さ故ではないだろうか。
「理子ちゃん〜。慎重も度が過ぎると臆病ってもんだぜ?いくら警戒してたって駄目なときゃダメなんだからさ。もっと気楽にいかないと、皺増えるぜ?」
「えーえー、どーせ私の死因はストレスからくる胃潰瘍でしょうよ」
「でもさー、あの霧生って奴、そんなに凄いかー?プロの割にはなんか正々堂々とか甘っちょろいこと言ってやがるし」
「所詮、実戦経験は無いんじゃないか?なんだか理屈倒れって感じだしな」
 こういう会話を前にすると、ますます危惧が深くなる理子である。
「とにかく!私は絶対反対ですからね!」
 そのまま憤然として食堂を出て行く理子の後ろ姿を眺めて、誠志郎は肩をすくめた。
「だってさ。どーするよ十夜?」
「まあ、空木さんの言うことももっともなんだけどな」
「いいよ十夜くん、誠志郎くん。私も空木さんが正しいと思う。やっぱり、ちょっと今の状況では温泉なんて無理だよ」
 しばらく重苦しい雰囲気が三人の間に立ちこめたが、ややあって誠志郎がなんだかひどく邪悪な目つきで十夜を見た。
「おいこら、何を企んだ」
「企むなんて人聞きの悪い。いやさ、理子ちゃんを同行させるのに良い方法を思いついたんだよ、これが」
「それが悪企みだってんだよお前の場合」
「ふっふっふっ、まあ聞け。十夜、お前…『特○野郎Aチーム』って知ってる?」
「あれだろ、結構前にやってたアメリカのTV番組…」
 十夜も誠志郎が何を言わんとしているか、気付いたらしい。そのまま小声で相談し始めた男二人を見ながら、カスミは自分がひどく愚かな提案をしてしまったのではないかと、遅まきながら後悔しはじめていた。
 あの陽気で楽しそうな福引きの職員さんには悪いが、このチケットは返してきた方がいいのだろうか。とても派手な、極彩色の布地に竜と鳳凰を刺繍した中国服にドジョウ髭、同じく派手な中国帽に丸いサングラスをかけて、「アヤ〜お嬢さんアナタとても幸運らっきーアルヨポコペン。一等の温泉旅行アタリね!エイゴでいうと大変らっきーすとらいくアルかーー?」と、まるで我が事のように祝福してくれた、とても楽しい中国人の職員さんには悪いが。
(あれは怪しい中国人っていうのよ!:空木談)

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「失礼しますー。備前先生、いますか?」
「いるよ。どうした、名城」
 ゆっくりと椅子を回転させて、この保健室の主、備前淳也はゆったりとした微笑を浮かべて来客を迎えた。戸口に立っていた二人の女生徒…名城瞳と夕凪汐音が一応礼をしてから入ってくる。二人ともこの藍仙高校の二年生…十夜達のクラスメートである。
「先生、先生のところにはその…雲野やカスミから連絡ありませんか?」
「いや、悪いが…。すまないね、いつも同じ答で」
「いえ、そんな、悪いのはカスミを連れまわしてる雲野たちです!」
「まー、あたしも学校サボることにかけてはちょっとしたもんだからあんまり偉そうなこと言えないけど…ただ、同じクラスの生徒が3人、しかもうち一人が女生徒で長期に渡って欠席っていうのは、いくらなんでもヤバいよね。いろいろ変なこと吹聴する奴も出てくるし」
 いつもバンドとバイトで滅多に学校に出てこない汐音が言うと妙に重みがある。
「…とりあえずカスミ君はドイツの親戚の所、雲野は親戚に不幸があって、柊には入院してもらっているんだが、これ以上となるとな…いっそ留置場にでも入ってもらうかな?」
「センセー、それ雲野や柊だとシャレになりませんよー」
「でもいいんですかそんなことしちゃって?いや、ありがたいんですけど…でもバレたら先生、首が危ういんじゃないですか?」
 穏やかな顔をして、必要なら厳格な教育者なら絶対やらない型破りなことでもやってのける。それが生徒のためになることなら。そのため同僚の教師達からは睨まれているが、まだ20代半ばの年齢ということもあり、備前は理解のある保健医として絶対の信頼を生徒から得ていた。十夜たち、そして名城にとっては頼りになる存在である。
 鷹揚に笑って、備前は机に片肘をついた。
「あいにくからみついたしがらみって奴は、なかなかふりほどけないものでね。一度嘘をついてしまったら、もうそのまま嘘をつき通すしかないのさ。と、まあそういうわけで、先生は自分の首を守るためにも問題児どもを匿わなくちゃいけないんだな、これが」
「運命共同体ですねー」
 二人の笑いについていきそこねて、名城はやや俯いた。普段は快活で気の強い言動が目立つが、ここ数日は明らかに元気がなく備前に相談する回数も増えてきている。皆が思っているほど気丈ではなく、むしろ繊細な子なのだということを、備前は知っている。
「先生…何ですこれ?」
 瞳はどちらかというと嫌そうな口振りで、保健室の壁にかかった衣装を指差した。まともな美的感覚の持ち主ならまず手にとることもないだろう極彩色の中国服。近くの戸棚の上にはお揃いの中国帽と、見るからに怪しい丸い黒眼鏡が置いてあった。
「ああ、今度友人の結婚式があるんだ。その余興で、この格好で東京スネー○マンショーでもやろうかな、と」
「センセー、言っちゃ悪いけど思いっきり!趣味悪すぎ。限りなくローセンスだよ。止めた方がいいんじゃない?」
「そ、そーかー?でもな名城、結構おもしろいと思わないか」
「全然」
 無慈悲なほどスッパリと、瞳は断言した。
(…い、いつか洗脳してやる…)
 そんなアブネーことを考えながら、表面上はあくまでにこやかに備前は机の引き出しから一枚の旅行券を取り出した。
「名城。雲野のことが心配なのはわかるが、もう少し、あいつのことを信用してやるんだな。雲野は自分のことは自分で何とかできる奴だ。そして、何でも意固地に自分だけの力で解決できるだなんて思い上がってもいない。もし必要なら、あいつは先生や名城を頼ってくるよ。その時は、力になってやればいい。だが、今の段階でお前が一人でやきもきしていても、何にもならない。今は、じっと待っているしかない」
 そう言って、手にしたチケットを渡す。
「本当は自分で行くつもりだったんだが、週末にちょっとした野暮用が入ってね。無駄にするのもなんだし、夕凪くんとでも一緒に行ってくるといい」
「え?なになに?…温泉一泊二日?わぁ、本当にいいんですか先生?」
「ああ。でも、夕凪くんはバイトの方は大丈夫かい?」
「へへ、またちょっとライヴが近いから、そっちに専念してバイトは休みとってます…。でも、なかなかメンバーの都合が合わなくって」
 やや演技の入った陽気さで、夕凪は瞳の肩を叩いた。
「ほら瞳、たまにはこう、パーッと騒いで憂さ晴らししないと身が持たないよ?ね、行こうよ。どうせ瞳の家も結構ルーズなんでしょ?」
「…温泉って…そんな、なにが楽しいのか」
「そりゃー、温泉に浸かって、浴衣でピンポンして、ボーリングして、夜はカラオケだな」
「センセー、オヤジくさい…でも温泉って美容と健康にもいいし、旅行自体、たまにはいいじゃない。ね、いこ?瞳?」
 一旦口を開きかけて、しかし瞳は黙り込んだ。雲野やカスミ、あとついでに柊の行方も気がかりだが、今、こうして自分に気を遣ってくれる備前先生や汐音の心遣いを無にするのも気がひけた。それにここ数日、ただ雲野…たちがいない、というだけで不思議と活力を無くしている自分の不甲斐なさが、自分でもいらただしい。
「…そうだね。じゃ、いこうか」
 瞳はむしろ自分に言い聞かせるように、強く断言した。


――(3)――

 東鳩屋の本館は、上から見ると葉っぱの形をしている。和風の、落ち着いた物静かと古めかしさが同居したひなびた温泉宿といった印象に、カスミは日本文化の美を感じた。温泉保養地に共通の硫黄臭も、慣れればそれで心地よい。
「いらっしゃいませ。東鳩屋へようこそ」
 まだ十代であろう和服の仲居さんが、にこやかに十夜たちを出迎えてくれた。おかっぱ髪に黄色いリボンというのはちょっと和服にはあっていない気もするが、柔らかで優しげな笑顔の眩しさがそんなことを感じさせない。
 その笑顔が、やや凍り付いた。
「ああ、気にしないで。それより、部屋まで案内してくれる?」
 わかっているよ、と言いたげに誠志郎はへらへらと笑って言った。彼の肩に担がれた、ロープでぐるぐる巻きにされた上にさるぐつわまでかまされた理子を抱え直す。
 長い艶やかな黒髪が美しい、これも随分若い女将に無言で促されて、仲居はこちらへ、と十夜たちを先導する。
 女将の後ろから姿を見せた、どうやら女将とは姉妹らしい女性があきれたように一行を見送ってから言った。
「姉さん、なんだか今日は変な客ばっかりくるわね。さっきの包帯ぐるぐる巻き男ほどじゃないけど」
 姉と同じ艶やかな黒髪をゆらしてやや大げさな身振りで慨嘆する妹を、女将はどこか焦点のあってなさそうな目で見た。
「え?お客様に対してそんな失礼なことを言ってはいけません?まあ、それはそうだけど、あんまり変なことされると他のお客に迷惑だしね」
 無言でこくこくと頷く女将。ぼーっとしているように見えて、その辺のことはやはり心配していたらしい。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「へえ、なかなかいい眺めじゃんか」
 カスミが煎れてくれたお茶を飲みながら、十夜は窓辺から広がる眺望にしばし見入った。海辺寄りのやや高台という立地条件ということで、眼下に青い海が一望できる。ややお約束のような景色だが、やはり良い眺めには違いない。
「なんかこう、畳ってのも久しぶりでいいな」
「そうだね、誠志郎くん」
 お茶菓子を片手に頷き合う二人である。特にカスミには、イスを使わない和風のインテリアというものに縁の無い生活が長かったので、こういう純和風のたたずまいというものは物珍しい。
「あの、ところで空木さんが、その…さっきから、とても恐い目でこっちを見てるんだけど」
 未だに縛られたままで部屋の隅に転がされた理子が、眼光だけで牛を三頭は殺せそうな視線を送り込んできている。
「あー、理子ちゃん。ひょっとして怒ってる?」
「うー!うー!」
「でもさー、俺らも結構苦労したんだぜ?テレビみたくいちいち麻酔つかったり殴って気絶させるのは、乱暴だしな」
「えーと、二人がかりで無理矢理縛り上げるのも充分乱暴だと思うんだけど」
「ううううううううううう!」
 顔を真っ赤にして唸る理子に、困り果てた様に誠志郎は腕組みをして思案した。
「でも、こう、なんか、身動きできない女性ってこう、男心を刺激するよな」
「う・うーっ!うっ!ううううううううう、ううううううーっ!」
 その時、唐突に部屋の障子が開いた。
「ちょっとあんたらうるさいわよ!一体なに…って、えーー!?」
「名城!?」
 ジーンズのタイトに黒のトレーナーという随分ラフな格好の少女。クラスメートの名城瞳だった。お互いにこの場で顔を合わせることなぞ全く予想していない顔を見だして、一瞬時間が止まる。
「どしたの瞳―?って、あれ!?雲野―!?」
「夕凪、なんでお前までここにいるんだ!?」
 しばらく固まって戸口に立ちつくしていた瞳が、ふらふらと中に入ってくる。呆然と一同を見回して…当然と言うべきか、縛られた見慣れぬ女性(理子)の姿に目を留める。
「あれ?なにこの貼り紙?」
 瞳は理子の背中に張られていた紙をとって、誠志郎の筆跡で書かれた文を読み上げた。
「…この女はこういうプレイが好きなそんな女です。本人が望んで縛られているので警察とか呼ぶ必要は無いですよコンチクショウ…?」
「あ、あの、名城さん?」
 そのまま再び石になってしまった瞳に、カスミはおそるおそる話しかけた。その背後では死人のように青ざめた誠志郎を、爆発寸前まで赤くなった理子が睨み付けていたりする。
 やがて…小刻みに、瞳の身体が震えだした。震えながら、両の拳が固く、固く握りしめられる。
「あ、あ、あ、あんたたち、まさかこんな温泉宿にカスミを連れ込んで、なんだかもの凄く特殊で卑猥でいやらしいことをしようと企んだりとかしたりした!?」
「まてっ!なんか文法へんだぞお前!っていうよりとにかくそれは誤解だっ!」
 必死に弁解しつつ、しかし、頭のどこかで十夜は、今の「ドラゴン殺し」を振り上げた狂戦士のような瞳を説得するのは不可能だと、絶望的に理解していた。
 傍から見ると柔道のようにすり足で移動しながら対峙する二人。だが十夜は巧みに方向を変え、少しずつ戸口に向かってにじり寄る。
「汐音っ!逃がしちゃダメよ!」
 だが、十夜の最後の希望の光はあっさりその手前で閉ざされてしまった。
「ごめーん雲野。でもアタシもまだ死にたくはないし」
「ゆうなぎ〜〜〜〜〜〜!」
「うーっふっふっふっふっ、泣いたって許してあげないんだから」
「…そうよねぇ。主に誠志郎くんとしても、十夜くんにもしかるべき報いをくらわせてあげないとネ!」
 いつの間にやら戒めを解かれていた理子が、硬直した身体を慣らしながらゆっくりと立ち上がる。
「…って理子ちゃんいつの間にーーーっ!?」
 愕然とする誠志郎の視界に、ロープを手にした汐音の姿が目に入る。
「あ。いや、さっき、いつまでも縛られてるのはあんまりだと思って。…ひょっとして、余計なお世話だった?」
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
「をほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ」
 怪しい笑い声に包囲され、十夜と誠志郎はいつの間にか背中合わせになっていた。
「くっ…おい十夜。こいつはちょっと、覚悟をきめなきゃならないようだな」
「ここで死ぬことになるか、誠志郎」
 絶対の死を目の前にして、二人の漢は静かな決意を瞳に湛えて、不敵な笑みを浮かべた。
「「なにカッコつけとるかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」」
「「いやああああああっ痛い壊れる死ぬ助けて死にたくないやめてえぇぇぇぇぇ!!」」

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「?うん…?」
 どこからか、遠く悲鳴が聞こえてきたような気がして霧生忍は辺りを見回した。ここは東鳩屋の所有する浴場の一つ、魚の泳ぐ海底温泉である。源泉が海底にあるためほとんど海を適当に囲っただけの露天風呂だが、水温はそれなりに温い。
 結局不審なものは見当たらず、霧生はタオルを湯につけて空気をため、「くらげ」を作ってみたりした。「タオルを湯にいれないでください」という立て札を真後ろにしていい度胸である。もっともまだ日も高いため、今この場には霧生以外に客はいない。
 行く前はさんざんごねたくせに、いざ到着してみると数ある温泉に一通りはチャレンジしてみないと気が済まない霧生だった。遊園地のスタンプラリーに熱中する子供と同レベルである。
「霧生じゃないか」
 落ち着きのある声が霧生の耳に届いた。振り向くと丁度脱衣所から一人の男が姿を見せた所だった。壬生洋平。御子柴直属のオーギュメント使いである。
「…休暇で来ているんだ。そう身構えることもあるまい」
 敵意というほどではないが、嫌悪を隠そうともしない霧生につまらなそうに声をかけ、壬生は彼とはやや離れた場所からゆっくりと身体を湯に浸した。
 霧生と彼の主である園宗寺にとって、上司であり支部長である御子柴は潜在的には最大の敵である。壬生は当初は傭兵として御子柴に一時的に雇われている身に過ぎなかったのだが、オーギュメントの回収及び脱走したスタッフの追跡に従事する中で、オーギュメント「インディペンデンス」の登録者となってしまった。それは偶然であったのか、それとも意図的なものであったかは判断できない。ただ、一度登録者となってしまった以上、現時点ではインディペンデンスを使用できるのは壬生唯一人であり、ダイスは彼を手放すわけにはいかなくたった。
 そのこと自体は霧生にとってはあまり意味がない。結局のところ彼にとっては、壬生という戦闘のプロが園宗寺要にとって障害に成りうる人物であるということのみでしか基準はない。
 一方の壬生は一見のんびりと温泉を楽しんでいるが、実のところ霧生に対してやや興味深げに視線を送っていた。
 霧生は若く未熟だが、単純な技術や知識、肉体の完成度は兵士として既に一級だった。もう少し経験をつんで、精神的な落ち着きを得れば良い傭兵になれるだろう。なかなか鍛え甲斐のありそうな人材である。
(…なんだ?)
 さり気なく自分を観察している壬生に妙な居心地の悪さを感じ、霧生は早々にこの場を退散することにした。それに、まだ未踏破の浴場が控えていることもある。
「…おっ」
 霧生がすっくと立ちあがった瞬間、思わずという感じで壬生の無精髭だらけの口元から、感嘆の響きが洩れた。均整のとれた、細身だが鍛え上げられ一片の贅肉もない霧生の身体はやや色白な肌と相俟って、一種異様ななまめかしさを伴った美しさがあった。
「霧生…」
「なんだ?」
 急に粘っこさを増したような壬生の視線に内心怯みながら、外見は務めて冷静さを保って霧生は返事をする。
 幾ばくかの間を置いて…ほう、と一つ吐息をついて壬生は、言った。
「お前…いい身体してるな」
 壬生は今年で32歳である。一般的にはまだ青二才呼ばわりされる年齢ではあり、傭兵としても技術と経験と身体能力の円熟した時期である。若さの盛りは過ぎたとは言え、肉体的にはまだまだ老化という文字には縁遠い。一般的には。
 だが戦場という次元でのレベル、傭兵としての壬生の身体は、これから先は衰えていく一方である。無論、それはまだ差し迫った問題というものではないし、身体の衰えは培った経験とそれに基づく技術で補える。戦闘のプロとして今のレベルを保ったまま、まだまだ第一線で闘えるであろう。しかし、最終的には己の身一つが唯一の財産である傭兵にとって、いずれ己に訪れる衰えは無視できない。若さと活力に溢れる若者に、つい羨望の眼差しを向けてしまうのも批難に値することでもないだろう。
 だが、霧生はその時唐突に、軍隊とは同性愛者の巣窟の一つであるという、下世話で偏見にまみれた風評を、記憶巣の底から掘り出していた。
「お、おい、霧生?」
 光の速さで自分の前から消え失せた若者を、あっけにとられて壬生は見送った。
(両手で自分を抱きかかえるようなポーズで、後ろ向きに全力疾走できるとは、意外に器用な男だな。しかし、なんでまた、ああも妙に青ざめた顔をしていたんだ?)
 とんでもねー疑惑をかけられた自覚もなく、壬生はのんびりと手足を伸ばした。まだ日の高い、青い空を見ながら思い浮かぶのは愛娘の由佳里の顔である。
「女房が生きていたら、家族水入らずでこういう所に来たかったよな…」
 謎の奇病で心を閉ざしてしまった一人娘。娘が、まだ父親と一緒に風呂に入る年齢のうちに、この厄介な病気が治ってくれないものか。
 …壬生洋平、32歳。彼の名誉のためにここに明記しておく。彼は絶対に、戦場の男にありがちな衆道趣味は持ちあわせてはいない。単にちょっぴりロリのはいった親バカなだけである。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「あー、いいお湯だったわね」
「本当。私、また来たいな」
「じゃあさじゃあさ、またいつか一緒に行こうよ」
「でも今度は自費でこなきゃいけないから、バイトしないとね」
 まだ湯気がたちそうに火照らせた身体を一面に葉っぱの模様が染め付けられた4人の女子高生(※正確には一名例外アリ)の後ろをやや遅れて、少々足をよたらせた男二人組みがついて歩いていた。本館と違って近代的なホテル風の別館を、賑やかに歩く群を見遣りながら、誠志郎は慨嘆した。
「おい…信じられるか十夜?せっかく4人もピチピチギャルがいるっていうのに、入浴シーンもサービスもなく、さーっさと終わってしまってんだぜさーっさと!神様、こんなことが許されていいんですか!?」
「…ピチピチギャルって…お前、歳幾つだ?」
「お前と同じ歳だが、それがどうした?」
「…。しかし、空木さんも一応『ぎゃる』に入れていいのか?」
「なあに?」
 にこやかにこちらを振り返って、メンバー中唯一の成人女性が問い掛けてきた。
 顔は笑っていた。
 でも、「なあに?」のなとあとにの間に、尋常でない殺気がこもっていた。
「十夜―、なんか飲むかー?奢ってやるからさ」
「そーかー?じゃー、おれ力水(DHA配合)でいいや」
 かたかたと歯の音を鳴らしながら、できるかぎりさり気なく二人はジュースの自販機に顔を向けた。しかし、いつもたかってばかりの誠志郎が「おごる」という一事が既に、バレバレだった。まあそれはともかくとして、他の面々も喉の渇きを覚えて引き返してくる。
「えっと…じゃあ私、ひやしあめ」
「あたしは何にしようかな。何これ、しいたけドリンク?椎茸エキス配合?」
「ねえ、カスミ、瞳…この、本格ちゃんこスープ『どすこい』って、ナニ?」
 しばしの沈黙のあと、誰かが、ポツリと言った。
「椎茸に、エキスってあるの?」
「それよりどすこいって一体…?」
 世の中には2種類の人間がいる。みるからに怪しそうな、ロクでもなさそうな代物を発見した時、それをあっさり避ける人間と、無謀と承知でそれに挑む人間とが。
 そして、この場にいる人間は。
「最初はグーな」「恨みっこなしね。約束だよ?」「じゃあ、いっせーので」
 …訂正。もう一種類、とりあえず身近な人間を実験台にして探ってみる人間がいた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 いつしか空には赤みが増していた。別館の最上階、展望浴場前のロビーも、赤い光に侵食されている。そして、そこに佇む男の白く脱色した髪も、例外ではなかった。
「やはり、基本は牛乳だよな」
 東鳩屋の葉っぱ浴衣に身を包み、腰に左手を添え、牛乳瓶を一息で空にしたJ.B.はそんなことを呟いた。
「まあ、別に異論を唱えるつもりはないが…」
 やや離れた位置に設置された、マッサージ椅子に座った園宗寺は、こちらはラムネの瓶を傾けて、炭酸飲料を一口だけ飲む。入浴はしていないが、園宗寺も既にいつもの黒コートを脱ぎ捨てて、浴衣に紺の丹前を着込んでいた。
「ところで園宗寺、どうしてもそのメーテル帽子は脱がないのかね?」
「うむ、拒否する。それから、これは別にメーテル帽子などという名前ではないぞ」
 どう見てもメーテルだよなぁ、と思いつつ、一応それは言わないでおいてやる。はっきりいってアンバランスもいいところなのだが、しかし、なぜか、妙にしっくりするというか、この帽子がないと園宗寺という気がしないのも、事実だ。
「しかしなんだな…今時この手のマッサージ椅子といったら、ローリングローラーとか低周波治療機とか、もうちょっとそれなりのものがついてるのだろうが…」
 どう見ても昭和30〜40年代製の、古めかしい椅子の肘掛けを園宗寺は撫でた。これまた古めかしい字体で「10円」と刻印された硬貨投入口が、爪の先にひっかかった。
「まあ、非常に高いレベルでウィットに富んででコミカルでサイケなアンティーク趣味とでも思ってくれ」
「アンティークは認めるが、ウィットだのコミカルだのサイケだのといった単語はそれとは似合わないと思うぞ」
 そう反論しつつ、正直どうでもよさそうな感じでまた一口、ラムネの瓶を傾ける園宗寺である。その姿にどこか微妙な違和感を覚えて、J.B.は微かに眉を寄せた。別に園宗寺の身を案じるつもりなぞカケラも無いが、しかし、まったく無関心というわけでもないのである。
 すこしだけ、表からは窺い知れないだけ躊躇ってから、J.B.は声をかけた。
「どうしたんだい?さっきから、何か考え込んでいるようだが」
「む?…いや…別に対したことじゃない」
「…ん〜、なんだか気になるな。良ければ聞かせてくれないかな?」
「いや、くだらないことだ。…子供の頃から、思っていたんだが」
 園宗寺はまだ中身が半分以上の乞っているラムネの瓶を掲げて見せた。砂時計のように中央部分が狭く、上層と下層に分れたおなじみのラムネの瓶。その上層部で、今は敏口から落とされた、栓のビー玉が転がる。
「本当にくだらないことなんだが…このビー玉って、どうやって入れたのかなって」
「………なんだって?」

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「…あ、あの〜、もしもし?」
 それから30分後、たまたま脱衣所のタオルを取り替えにきた、小学生のような清掃員の娘は、深刻な顔でなにやら懊悩している白髪にゴーグルをかけた客と、浴衣に似合わぬ黒帽子を頭に抱いた客を発見し、非常に苦悩することになる。
「あう〜、お客さん、なにか返事をしてくださいです〜(涙目)」



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