◆偽・義経電子密書〜弁慶でも分かる(かは保証できない)当時の政治的背景〜◆


九羅香「……みんなに、どうしても言っておきたい事があるんだ」
紅葉「何ですの九羅香様? そんなに改まった事を言われて?」
九羅香「実は店主さんによると、『少女義経伝』をプレイしている人には、元となった史実をあまり知らない人が多いらしいんだ」
静「ああなるほど〜。店主さんの知識はかなり『まにあっく』ですからね〜」
九羅香「いちおー店主さんは、『歴史に詳しくなくても平家物語は知ってるだろう』って安易に考えていたみたいだけど……」
玲奈「現実はそう甘くなかったわけだな。これが戦国時代(の一部の国)や江戸時代末期(の一部の団体)なら、同人誌も出ているくらいだから話は違うんだろうけどよ」
紅葉「発売前にはウェルメイドからメールマガジン『義経電子密書』が出ておられましたけど、義経の事以外を知るには情報不足ですし……」

ばたん。

与一「という事で、再び私達の出番だな」
静「そうですね〜。ワタシ達……というかその元となった皆様がどのような時代におられたのか、それはとっても興味深いです〜」
玲奈「う……。張り切ってるよ与一と静……」
弁慶「……てゆーか、玲奈もあの2人は苦手なのか?」
玲奈「……ああ。京で隠密活動をするのに偉いさんと付き合うのは必須だからって、和歌やら礼儀作法やら物語やらを叩き込みやがって……」
九羅香「与一はよそ見をするとすぐ矢が飛ぶし、静は分かってもらえるまでしつこく同じ話をするからね……」
紅葉「特に発音指導では、京経験が唯一なかったわたくしは何回徹夜した事やら……」
(※この時代から「京都」という表現が現れるが、室町時代頃までは「京」の方が一般的。なおゲーム内の与一は、大番役で京に来て敦盛の笛を聞いた事があります)
与一・静「では、行くぞ!/行きますよ〜♪」
他の全員「あうぅ〜〜っ」

 
 日本の家系について〜血は水よりも濃い、とは限らず〜
  ├皇室
  ├源氏と平氏
  │├清和源氏
  │└桓武平氏
  ├藤原氏
  └その他の氏族
 当時の政治体制について〜権門体制実施中〜
  ├まずは京都から
  ├地方の仕組み
  ├身分について
  └外との関わり
 平安末期近代史〜源源の合戦と平平の合戦へ〜
  ├保元の乱前夜の情勢
  ├保元の乱
  ├平治の乱
  ├六波羅平氏全盛期
  ├…の裏側で
  ├平氏専制と反六波羅勢力
  ├頼朝(その他大勢)挙兵
  ├義仲軍入京、そして退場
  ├頼朝軍入京
  └壇ノ浦以降
 
話の展開のリード役。弁慶専用体罰係(汗)。
学生其之一:源朝臣九羅香
学生其之二:藤原朝臣(佐藤)紅葉

!注意!
 このページの内容は、あくまでも歴史を元としたゲームの背景をより深く理解するためのものです。
 歴史の学習用に用いるには、あまり相応しくありませんのでご注意下さい。
 (実際、ここの著者もしばしば加筆訂正を繰り返していますし……)


◇日本の家系について〜血は水よりも濃い、とは限らず〜◇


九羅香「えっと、まずは源氏とか平氏とかの家系についてだね」
与一「まずは家系の一般常識についてだが、『お茶でも飲みましょ〜』の入門編其之三でやったからそちらを参照するように」
弁慶「でも家系といったって、どうせほとんどは適当な嘘を付いて……」

ざぐっっ!!

弁慶「ぐあ〜〜っ!! 鉾が鉾が〜〜っ!!(←流血)」
紅葉「弁慶様……大織冠鎌足公に始まり、更に遡ると天孫降臨をお助けなされた天児屋命(アメノコヤネのミコト)に至るわたくしの血筋を、よくも平然と侮辱する事ができますわね?」
静「ああ、藤原氏の事ですね〜。ちなみに、与一さんや平泉の秀衡さんや摂政様もみ〜んな同じ藤原氏ですよ〜」
玲奈「神様云々はさておき、この時代に呼称している姓はかなり出所が確かなはずだぞ弁慶。だいたい偉いさんの家なら大勢子供作っても物持ちだから分家できるし、貧乏な家だと子供も作れずに断絶したりしちまうからな……というのは江戸時代の村を研究している論文からの孫引きもあるけどよ」
九羅香「はは……特に皇室なんて無茶苦茶分家しているもんね。源氏や平氏だけでも数え切れないくらいだし」
与一「では具体例の紹介に移ろう。まずは九羅香殿の本家筋にあたられる皇室からだな」


・皇室

与一「言うまでもないが、皇室というのは帝をお出しになる、日本で最も尊い家系だ。全ての源氏と平氏にとっての総本家でもあらせられる。弁慶の時代の今上陛下のご先祖でもあるから、今更説明は不要だな」
静「いわば、源氏も平氏も臣籍に下った親戚同士という事ですね〜」
弁慶「……はぁ」
静「何だか気迫が稀薄ですね〜。九羅香さんと夜更かしでもしたんですか〜?」
弁慶「いや……今の連続ダジャレもあるけど、紅葉に血抜きをされたのがまだ回復していないだけで……」
九羅香「源氏や平氏についてはさておき、わたし達の時代の皇室は、天皇ではなくて退位したはずの上皇や法皇が、皇室の家長として権力を握っているんだよね。200年くらい前の時代には皇室の有力家系間で皇位の争奪戦が繰り広げられて、藤原氏の摂政や関白太政大臣が政治を左右していたんだけど、今は摂関家が分裂しちゃっているから……」
紅葉「もう少し後の時代には五摂家として固定されますけど、今はまだ覇権を競い合っている状態ですからね」
九羅香「そーゆー事で、上皇や法皇が院政を行うようになってからは荘園の寄進も相次いで、今の皇室は摂関家と並ぶ最高の荘園領主でもあるんだよ。与一の実家の荘園だって、一番上の領主は皇室(※より厳密には勤子内親王(宣陽門院、後白河法皇の娘))だしね」
弁慶「……で、今は法皇……オレ達の時代で言う後白河法皇が日本の最高権力者か。単なるハゲた今様マニアかと思っていたら、無茶苦茶凄い人物なんだな」
玲奈「あれはハゲじゃなくて剃ってるんだ! そもそも法皇というのは出家して仏門に入った上皇の事で、戦国時代頃までは年を取ると出家するのが社会常識なんだよ!」
与一「未来の人々の『出家=世捨て人』という観念とは違うからな。もちろん西行法師や栄西殿のように世捨て人になっている事もあるが、それでも歌の会に顔を出したり寺院再建の勧進を行ったりはするぞ」
静「ちなみに今の天皇は、平氏の皆さんが推戴して西国に移られた安徳天皇と、空白を埋めるべく京で即位された後鳥羽天皇であらせられます〜。どちらもまだいたいけなお子様ですので、登場されていればショタ趣味のお姉様方に大受けだった事でしょうね〜」
弁慶「あのー静さん、この頃のお二方は史実だと5歳と3歳くらいなんですけど(汗)」
九羅香「……余談ながら、兄上やその他の諸国の源氏が蜂起した時、名目となったのが以仁王の出された令旨。本人は追討されると同時に、勝手に臣籍降下されて『源以光』にされてるんだけど、史実で指名手配されている間に2回も改名させられた『義経』としては他人と思えないよねぇ(汗)」
紅葉「ちなみに血縁関係は、安徳天皇と後鳥羽天皇はご兄弟で、その父上が高倉上皇、お祖父様が後白河法皇となります。以仁王は高倉上皇の兄にあたられますが、冷遇されて親王宣下を受けられず、それが反乱を起こす契機の1つであられたかもしれませんわね」
与一「ちなみに下の系図は、平安時代の初めから鎌倉時代の半ばまでのものだ。主要な源氏や平氏がどこで枝分かれしたか、ぜひ参考にして欲しい」

〈皇室系図(平安時代中心)〉

桓武平城阿保親王→在原氏
   ├嵯峨仁明───────┬文徳清和陽成(─元平親王─源経基→陽成源氏?)
   ├淳和├源信─┐        │        └貞純親王源経基→清和源氏
   │   ├源融─┼→嵯峨源氏 │     
   │   └他多数┘        └光孝宇多醍醐───────┬朱雀
   ├葛原親王平高棟────┐        ├斉世親王┐      └村上
   │      └高見王平高望┤        ├敦実親王┼→宇多源氏   │
   ├良岑安世→良岑氏      ├→桓武平氏 └他多数─┘           │
   ├万多親王────────┤                           │
   ├仲野親王────────┤                           │
   └賀陽親王────────┘                           │
┌──────────────────────────────────┘
冷泉花山─清仁親王→花山源氏
│   └三条┬小一条院
│        └禎子内親王(後朱雀后、後三条母)
├為平親王┐
円融──────── 一条後一条
具平親王┼→村上源氏    └後朱雀後冷泉
└他多数─┘                  └後三条白河堀河鳥羽
┌───────────────────────────────┘
崇徳─重仁親王
後白河───┬二条六条
├八条宮     ├以仁王─北陸宮
│(#子内親王) └高倉安徳
近衛          ├後高倉院─後堀河四条
               └後鳥羽土御門後嵯峨宗尊親王惟康親王(源惟康)
                     └順徳仲恭   ├後深草→持明院統・北朝→今上天皇
                                 └亀山→大覚寺統・南朝

太字は天皇の諡号・追号、斜体は征夷大将軍
下線は賜姓氏族の中で主要な系統の祖
※以下の、著名な子孫が乏しい源氏・平氏は省略
  仁明源氏・文徳源氏・陽成源氏・光孝源氏・醍醐源氏・三条源氏・後三条源氏
  仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏
※平安末期以外、著名な人物でも後世に系譜が繋がらなければ基本的に省略
※HTMLファイルで表記できない文字は記号を使用、本来の文字は以下の通り
 #=[日+章]


・源氏と平氏

玲奈「さっき与一が言ってた通り、源氏も平氏も皇室の分家だ。でっかい鬼門の下に封印されていたぼろぼろの太刀――神機の1つを手に取った時、九羅香に僅かだけど反応していたじゃないか。あれが紛れもない血筋の証明って奴だな」
与一「血脈が純粋に父系でないと反応しないかはいまいち不明だが、母系でも構わないなら反応する人物はかなり増えるだろうな。もし父系限定でも、在原氏(平城天皇の子孫)、高階氏、清原氏(共に天武天皇の子孫)とかなら確実に反応してしまうぞ」
玲奈「そう考えると随分杜撰そうだけど、平家でも観月以外に使えなかったから、反応するだけなら別にいいのか?」
九羅香「ま、まあその辺の疑問は置いといて、源氏や平氏にどんな家があったのか見てみようよ?」
静「え〜、源氏や平氏で後世に子孫を残した系統には、主に以下のようなものがありますね〜」

(1)桓武平氏→西洞院家、烏丸家など公家5家(江戸時代存続分。以下同じ)/平姓畠山家、河越家、熊谷家、江戸家、豊島家、葛西家、小山田家、渋谷家、上総家、千葉家、相馬家、東家、大掾家、小栗家、岩城家、城家、三浦家、和田家、芦名家、鎌倉家、大庭家、梶原家、長尾家、土肥家、相模中村家、小早川家、北条家、伊勢家、後北条家、長崎家など(時代は不問。家系の比較的確かな所を優先。以下同じ)
(2)嵯峨源氏→(公家にはなし)/渡辺家、松浦家など
(3)清和源氏→竹内家(公家昇格は戦国時代)/大河内家、源姓太田家、土岐家、奥州石川家、村上家、足助家、河内石川家、新田家、山名家、大館家、里見家、源姓足利家、斯波家、最上家、細川家、一色家、仁木家、吉良家、今川家、源姓畠山家、岩松家、佐竹家、武田家、逸見家、小笠原家、跡部家、三好家、南部家、平賀家、源姓大内家など
(4)宇多源氏→庭田家、五辻家など公家5家/佐々木家、佐々木六角家、佐々木京極家、尼子家、朽木家など
(5)村上源氏→久我家、岩倉家など公家10家/伊勢北畠家など
(6)花山源氏→白川家/(武家にはなし)
(7)正親町源氏→広幡家/(武家にはなし。ただし広幡家初代は徳川義直の娘婿)

(参考1)藤原氏南家→(公家にはなし。官人にあり)/工藤家、伊東家、河津家、狩野家、吉川家、二階堂家、千秋家など
(参考2)藤原氏北家→近衛家、九条家、三条家、四条家、日野家、吉田家など公家多数/佐藤家、首藤家、山内家、伊賀家、波多野家、松田家、近藤家、大友家、武藤家、少弐家、宇都宮家、伊沢家、留守家、八田家、小田家、那須家、藤姓足利家、佐野家、下河辺家、小山家、結城家、奥州(平泉)藤原氏、比企家、安達家、常陸中村家、伊佐家、伊達家、斎藤家、長井家、後藤家、伊藤家、加藤家、遠藤家、その他の「〜藤」家、菊池家、甲斐家、上杉家、鎌倉九条家、土佐一条家など

与一「この通り、やはり桓武平氏と清和源氏が武士では圧倒的に多いようだな。ちなみにこの順列に別に意味はないし、同じ名字を名乗る家系はいくら分家が多かろうと基本的に区別していない。公家は平安末期にはまだ固定された名字を名乗っていないし――完全に固定するのは戦国時代末期だそうだ――、武士もこの中の大半は源平の合戦の時期には成立していない事に注意するように」
弁慶「それにしても、武士だと何で関東の家が多いんだ?」
静「まず言えるのは〜、平安時代に入ってから坂東の開発が対蝦夷の前線を支えるものとして積極的に進められたからでしょう〜。それと鎌倉幕府の成立後に〜、他の地域、特に土着の一族が多く排斥された奥羽、阿波、安芸、豊後で幕府系の武士がのさばったからと思われます〜」
与一「……その際に西日本の各地で慣行の違いによる紛争が多発したのだが、未来の話なのでとりあえず棚上げにさせて欲しい」


・清和源氏

九羅香「さて清和源氏だけど、源氏筆頭の名門として弁慶の時代でも有名だよね?」
与一「そこは訂正しておこう。源氏筆頭の名門は清和源氏ではなく、摂関家の身内として公卿を大勢出し続けた村上源氏だ。源氏の氏長者も村上源氏から出ているぞ」
九羅香「うぐぅ……確かに清和源氏は初代からず〜〜っと公卿を1人も出していなかったけど、武士の家としては一番有名なのに……」
静「さて〜、清和源氏というのはその名の通り清和天皇(嘉祥3〜元慶4(850〜880))のご子孫です〜」
弁慶「その清和天皇って、どういう事をした人物なんだ?」
紅葉「数え年の31歳で世を去られたお方ですので、特に挿話もございませんわ。ちなみに御子の陽成天皇(貞観10〜天暦3(868〜949))は数え年の82歳までご存命のお方でしたが、乳兄弟を殺して廃位されたり、火事を眺めながら楽しそうに歌ったりと、芳しくない話ばかり残されたお方でしたわね」
玲奈「一部の学説によると、九羅香の遠い先祖の源頼信の願文の記述から、清和源氏は実は陽成源氏で、『我こそは狂気の君主陽成天皇の○代の孫なり〜!』なんて名乗れないから血統を隠匿したという考えもあるんだとよ」
弁慶「『影が薄い君主清和天皇の○代の孫なり〜!』でも嫌だと思うぞオレ……」
与一「まあ、頼信の父である満仲が陽成天皇……というか陽成上皇の臣下達と関わりが深く、お子である元平親王の養子になっていたのではないかとする説もあるようだがな」
静「ちなみに一般の系図に従えば、清和天皇から『義経』さんまでは10代、桓武天皇から知盛さんまでは12代になります〜」
与一「という事は……2人の関係は26親等か?」
九羅香「んーっと、昔わたしのご先祖が桓武平氏からお嫁さんをもらった事があるから、そっちで計算すると16親等だよ。いずれにしても親戚と言うには遠過ぎるよねぇ」

・経基王と摂津源氏

与一「それはさておき、開祖である清和天皇の孫・経基王(別名六孫王)は、承平の乱(承平5〜天慶3(935〜940))と天慶の乱(天慶2〜天慶4(939〜941))で名を挙げた人物だ。もっとも承平の乱(当時は武蔵介)では平将門が実際に常陸の国衙を焼いて謀反を起こす前に将門謀反と勘違いするという『ふらいんぐ』を犯しているし、天慶の乱でも自分で藤原純友(元伊予掾)を討ち取ったわけではない。また、一般には賜姓は乱の後だとされるが、これに異を唱える説もあるようだ」
九羅香「…………何とゆーか、自分の先祖だけど武門の開祖としてはダメダメかも」
与一「さて、その後に残党処理を行ったり、大宰府に赴任したりもしたが、結局は武門としては才能が覚束ないという評判を払拭するには至らなかった。清和源氏が武門として名を立てるのは、摂津の多田に所領の多田院を構えて、安和の変(安和2(969))を契機として名を挙げた息子の満仲の代だろう。ちなみに藤原師尹に接近したこいつのせいで、私や紅葉殿の先祖の一族であり源高明と懇意だった藤原千春(秀郷の息子)が失脚しているがな」
紅葉「あのー、そのお話はまたいずれ……」
与一「……おほん。ともあれこの事実上の開祖である満仲と、多田を相続した長男の頼光は、様々な逸話や伝承で知られている。満仲は公家としての位をいい事に家臣に私刑を加えたり近隣を荒らしたりで評判は必ずしも良くなかったが、頼光はほとんど武功を立てていない――というか武功を立てるような戦がなかったがゆえに、平和な時代の帝の護り手として、後世の評判も良くなったそうだ」
弁慶「『公家としての』って? 武士だから家臣に私刑を加えたんじゃないのか?」
九羅香「……五位以上の位を持つ貴族は特権階級だから、家臣を勝手に処罰しても大目に見られる事が多いんだ。別に武士に限ったわけじゃないから、こーいう所ばかり見て武士だけをヤクザ扱いするのは片手落ちだよねぇ」
静「身も蓋もなく言いますと〜、公卿の方々から凡下に至るまで〜、社会全体が未来のヤクザ屋さん顔負けと言ってもよいでしょう〜」
弁慶「…………ところで、逸話や伝承ってどんなのがあるんだ?」
紅葉「満仲様は、歌舞伎でも『多田満仲(ただのまんちゅう)』としてよく出演されるそうですね。平将門様の遺児(完全にフィクションですが)との絡みが話の種となる事が多いそうです」
玲奈「頼光が藤原道長の新邸の家具を全部調達したっていう話は、あたしでもよく知ってるぞ」
静「頼光と藤原保昌による酒呑童子退治や頼光と四天王による大江山の鬼退治の話は〜、磯ノ禅師様から小さな頃に物語してもらいましたね〜。こんな世界ですから本当に鬼さんがいてもおかしくはないんですが〜」
弁慶「いや、オレは妖魔退治だけで限界だし……」
与一「この摂津源氏の子孫でこの時代に有名なのが、鵺を射落とした伝説で知られており、以仁王と共に戦って敗死した頼政殿(従三位散位で清和源氏初の公卿。歌人として名高い)だが、嫡流は鹿ヶ谷の謀議を清盛殿に通報した行綱殿の方だろう(この行綱殿は、源平の合戦の後に多田院を頼朝殿に奪われてしまうが)。ちなみにこの家系は基本的に京に屋敷を構えて武官や各国の国司を歴任し、摂津には滅多に寄り付かない当主が多い。いわば、武士よりは貴族に近い家系だな」
紅葉「他にもこの時期には大和源氏と九羅香様のご先祖の河内源氏が、もう少し後には様々な系統の美濃・尾張・三河・信濃源氏が分岐致しますわ。いちいち挙げるのも大変ですので、興味のあられる方は大きな図書館で歴史書を紐解いてみて下さいませね?」
九羅香「でも古い研究書の場合、最新の研究動向を全く反映していないので要注意だからね」

・河内源氏の発展

九羅香「わたしの家系の直接の開祖は、経基の孫で満仲の息子、頼光の弟である頼信という人なんだ。河内の石川郡に根拠地を置いて河内源氏と呼ばれていて、最初は畿内で活動していたんだけど、平忠常の乱(長元元〜長元4(1028〜1031))で平忠常(元上総介・下総権介)を降伏させて、その時に平直方の娘を息子の頼義の奥方に貰ったのがきっかけで、直方の拠点だった鎌倉郡鎌倉郷を子孫に相続させたんだ。もちろん京にも屋敷があって、鎌倉は別宅みたいなものだけどね」
与一「ちなみに忠常は直方とは数代前からの宿敵関係だったが、元から頼信の傘下に入って仕えており、いわば出来レースだったという見方も出来るだろう」
九羅香「与一……そんなにウチのご先祖が嫌い?」
静「余談ながら忠常さんは上総家と千葉家の祖先、直方さんは北条家の祖先ですね〜」
玲奈「確かこの後の頼義や義家の時代に、前九年の役(永承6〜康平5(1051〜1062))と後三年の役(応徳2〜寛治元(1084〜1087))があったんだよな」
九羅香「うん。わたしのご先祖様達が奥羽の叛徒を討伐して武名を上げた記念すべき戦いだよね」
与一「九羅香殿の知識は微妙に歪んでいるので補足するならば、前九年の役では奥六郡(未来の岩手県中央部)の安倍氏が隣郡との間に諍いを起こしたのを頼義が陸奥守として鎮定にあたり、しかも一旦帰順させたのに再度離反されて山北(未来の秋田県北部)の清原氏の援助を受けてようやく鎮圧、しかも奥六郡まで清原氏が併呑してしまったのだ。後三年の役では、清原氏の内紛に義家が勝手に首を突っ込んでいたに過ぎん」
玲奈「しかも赴任先で勝手に戦を起こしたうえに、朝廷に陸奥でしか採れなかった黄金を納めるのを怠った罰として、義家は陸奥守を辞めさせられて、得したのは奥州藤原氏初代の清原(藤原)清衡だけ。まるっきり骨折り損じゃないかよ」
静「それに義家さんはこの戦で奥羽の住民に蛮行を働いたと、都では評判だったそうですね〜。さすがは『人殺しが上手』と蔑まれた人物です〜」
九羅香「そ、それでも軍学の知識で乱れた雁の列から伏兵を発見した話とか、勇敢な者とそうでない者を宴で別々の所に座らせて戦意を高めた話とかが……!」
紅葉「……敵に悪口を言われたのを恨んだ義家がその敵を捕まえてから口を引き裂いて殺した話なんかも、奥州の北の方では有名でしたわね。この時代やわたくし達の時代には言霊が強く信じられていて、戦の前の悪口の掛け合いは当然でしたし、鎌倉時代には悪口そのものが犯罪行為でしたとはいえ……ねぇ弁慶様?」
弁慶「え〜と……」
九羅香「こんな所で精気を吸わないでよ紅葉! 某エンフィールドの看板娘じゃあるまいし!」
玲奈「……という前半は真面目で後半は馬鹿な話はさておいて、恩賞を貰えなかった義家は自分の財産で配下の武士をねぎらったんだってな。朝廷の出費を目当てにしたせいで自分の財政が傾くのは、何となく自業自得だけどよ」
静「さすがは玲奈さん。財産の話だけはよ〜っくご存知ですね〜」
玲奈「待てー!!(汗)」
与一「……なおこの時期に、河内源氏からは信濃源氏(の一部)や甲斐源氏、常陸源氏が分立している」

・驕る源氏は久しからず

静「でも驕る源氏は久しからず、この後速やかに河内源氏は衰退へと向かいました〜。その原因は一族の犯した犯罪行為です〜」
弁慶「犯罪……って、さっき与一や紅葉から聞いた話からするとなにが今更って感じだけど」
玲奈「800年後の人間が大人しいんだろ。仲が悪い相手にも闇討ちを掛けたり屋敷に火を放ったりしないしよ」
弁慶「……………………人間同士なら分かり合えるなんて話、やっぱり完璧な妄想なんだよな」
与一「『少女義経伝』はフィクションだからそこまでズレてはいないだろうが、それはさておき……もちろんこの場合の犯罪とは、九羅香殿なら知っているだろうが」
九羅香「でもわたしは嫡子でもないし、史実でも生まれて1年するかしないかのうちに父上が亡くなっているから、ご先祖の話なんてほとんど聞いた事もないし……」
静「というか史実に準拠すると、平家が都落ちする寿永2年(1183)7月には、もう満23〜24歳になっているはずなんですけどね〜。まさか冷凍睡眠でもしていましたか〜?」
紅葉「あまり追求しないで下さいまし静様……。ともあれ、まずはこの系図を御覧下さい」

〈河内源氏系図(一部)〉

経基┬満仲────┬頼光→摂津源氏→(多田)行綱・頼政・有綱(頼政孫、義経娘婿)・大河内家・土岐家など
   └→足助家など ├頼親→大和源氏→宇野家・奥州石川家など、常盤(義朝夫人、義経母)(?)
┌────────┘
└頼信┬頼義┬義家───────────┬義親────────為義
    │   ├義綱義明            ├義国→新田家・足利家 │
    │   └義光→佐竹家・武田家・平賀家├義忠┬→河内稲沢家  ↓
    └→村上家など  (・竹内家)・(山本)義経│   └======為義┐
                             ├義時→河内石川家    │
                            └義隆→源姓森(毛利)家   │
┌───────────────────────────────┘
├義朝┬義平
│   ├朝長
│   ├頼朝┬頼家┬一幡
│   ├義門├実朝├公暁
│   ├希義└大姫└竹御所(藤原頼経室)
│   ├範頼→吉見家
│   ├全成┬時元(北条時政孫)→源姓阿野家
│   ├義円└女子→藤姓阿野家
│   ├義経┬源有綱夫人
│   │   └男児(誕生直後に殺害)
│   └藤原(一条)能保夫人─藤原(月輪)良経夫人─藤原(九条)道家─藤原(九条)頼経(4代目将軍)
├義賢─(木曽)義仲─(清水)義高
義憲/(志田)義広
├4名略
為朝
├1名略
義盛/(新宮)行家

赤文字は、政争以外の理由により犯罪者となった人物
青文字は、頼朝に対して敵対的になった事のある人物/家

静「あら、これは頼信さんからの嫡流の子孫をまとめた系図ですね〜。しかも一昨年辺り(=寿永元年(1182))に生まれたばかりの万寿くん(頼家)や、まだ生まれていない皆さんまで書き込んでありますのは何ででしょ〜?」
玲奈「文句は店主に言えよ。てゆーかこの犯罪者って……」
弁慶「……九羅香のご先祖様、今日だけで株が大暴落だな」
九羅香「……とりあえず、犯罪ってどーいう事なの与一?」
与一「義家の年長の息子である義親(対馬守)が、在任中の康和3年(1101)に、九州本土で狼藉を働いたのだ。結果として翌年に隠岐へと配流されるのだが、嘉祥2年(1107)には出雲に舞い戻って目代(国司の代官)を殺害、翌年に平正盛(因幡守)に追討されて殺された(はずだが、自称義親がその後も現れた記録がある)。このために義親は廃嫡され、その息子の為義は叔父の義忠(河内守、京が活動拠点で義親より官位が高い)の養子となる」
紅葉「でも『狼藉』って、具体的には何ですの?」
与一「それは不明のようだが、目代殺害のような単一の事件でないようなので、おおかた自前の勢力を広げようとして九州各地の役人や領主と揉め事を頻発させたのだろう。しかもこの義忠も殺害されてしまい、それをそそのかした犯人として、義家の弟で一族の覇権を巡って争っていた義綱が捕縛、佐渡に流刑にされてしまう。その真犯人は義綱の弟で(以下同文)義光だという噂も根強かった辺り、一族の結束も何もあったものではない」
静「ここまで骨肉の争いを起こされては〜、ワタシとしてはお付き合いはご遠慮したいですね〜。ともあれ為義さんは評判ががた落ちになった一族を支えるために朝廷に勤務しますが、ご自身が同僚と揉め事を繰り返し、家来の人達も乱暴さが目に余り、一度も国司にしてもらえない上に、今度は自分の息子の為朝さんが、なんと数えの13歳(満11〜12歳)でお父さんに家を追い出された先の九州で、自前の勢力を広げようとして揉め事を起こし、『戻って来い』という朝廷の命令を無視したため、久寿元年(1154)に検非違使判官を辞めさせられてしまい、長男の義朝さんに家督を譲らざるを得なくなります〜」
九羅香「…………こーいう事を知っていてそれでも家を再興しようと考えられるなんて、やっぱり兄上は偉大だよね」
玲奈「現実逃避するなよ九羅香ーっ!!」
与一「ともあれ清和源氏はこれくらいにしておいて、次は桓武平氏だな」


・桓武平氏

静「桓武平氏についてですが〜、ここで桓武平氏の皆様からゲストをお迎えしております〜」
弁慶「ま、まさか景時!?」
九羅香「いや、わたしの裸に劣情を抱いた件について大江殿や三善殿や安達殿や足利殿や宇都宮殿や北条殿や千葉殿や三浦殿とかに手紙を出したせいみたいで、今は鎌倉に呼び戻されて留守のはずだから……」
与一「……大番役に来た友人から『梶原殿は男色家』と聞いたが、まさか九羅香殿の仕業だったとは……」
教経「しかしオレとしては、あんな貧乳を見ても別に楽しくな――」

ざじゅっ!

九羅香「いきなり出てきてそんな弁慶みたいな事を言うなんて、いーかげん斬るよ教経殿っ!!」
弁慶「いや、だからもー既に斬ってるし……教経は太刀をよけてるけど……」
教経「ところで弁慶、お前も静御前みたいな巨乳の方が好きなのか?」
静「いいえ〜。弁慶さんは大きさにはさほどこだわらないみたいですね〜。さながら1日12刻、餓えっぱなしの獣のようです〜」
紅葉「以前(第五章)に伺いましたけど、弁慶様はわたくしを襲うよりわたくしに襲われる方が好みのようでおられますから、攻めよりはむしろ受けの方なのではないでしょうか?」
知盛「……言われ放題で苦労しているようだな弁慶。ともあれ今日だけは武器も術も交えずに世話になるぞ」
弁慶「ああっ知盛! まともな顔触れが増えて助かった〜!」
知盛「よろしく頼む。私はこういう場は『ふえて(不得手)』なのでな」

……………………。

一同「……………………」
紅葉「あっ……あの、桓武平氏の起源についてお話をお願い致しますっ」
知盛「桓武平氏というのは、桓武天皇(天平9〜大同元(737〜806))の傍系の末裔だ。ちなみに桓武天皇は、平安京遷都や蝦夷への勢力拡張で弁慶の時代でも有名だな。某天皇のように影が薄いという事もなく、ましてや某天皇のように狂人であられたという事もない」
九羅香「ちょっとちょっと知盛殿っ!?」
与一「知名度の点で桓武天皇に勝てるお方はほとんどおられないから、某天皇や某天皇に責があられるわけではないだろう。さて桓武平氏においても、賜姓を受けた人物により複数の流派に分かれるのだが、京で最も栄えたのは、桓武天皇の孫にあたる高棟王の子孫の一族だ。子孫は『日記の家』と呼ばれる文官の家となり、地味ながらも後世まで存続する」
玲奈「あたし達の時代で普通に『日記』と呼ぶのは、毎日の政務や行事、吉凶について細々と記した物だからな。たまーに自分が両刀使いで、しかもホモ関係の相手に殺人指令を出した事まで堂々と日記(『台記』)に書く奴(藤原頼長)もいるけどよ」
静「清盛さんの奥方の時子さん、その弟の時忠さん、更にその妹で高倉天皇の母上の滋子さん、『兵範記』を記された信範さん(こちらの方が未来の公家平氏の祖先です)が、ワタシ達の時代における代表的な人物ですね〜」

・高望王と坂東平氏

九羅香「……話は随分ずれちゃったけど、武士になった方の系統は?」
教経「高棟王の弟の子で、桓武天皇からは曾孫にあたる高望王だ。寛平元年(889)に賜姓を受けて上総介となったそうだが、この際に武功を立てていたとの言い伝えもある」
弁慶「武功って?」
教経「知らん」
弁慶「……ま、まあ、清和源氏の50年くらい前にもう武士を始めていたんだな」
与一「その通りだ。この頃の坂東では既に、桓武平氏だけでなく、藤原氏や嵯峨源氏、もしくはそれ以外の様々な氏族の武士団が存在を始めていた。農地の大開拓――江戸時代の新田開発に比べれば高が知れているが――や鉄・馬の生産、蝦夷との戦の名残の気風、はたまた日本の軍事力の中枢を占めていた伝統が武士団の発生を促したのかもしれんが、その正確な理由は未来の学者達にも分からん」
九羅香「都で政変がある度に東国に逃げようとする有力者が相次いでいたし(大海人皇子(天武天皇)が代表例だけど、父上もその中に入るかな?)、関所の構造が西向き――都からの逃亡者を逃がさない構造になっていたりするもんねぇ」
紅葉「では先程に引き続きまして、こちらの系図も御覧下さい」

〈坂東・伊勢平氏系図(一部)〉

高望┬良望/国香┬貞盛┬維将─維時─直方┬→北条家
   │      │   │            └源頼義夫人(義家母)
   │      │   └維衡─正度┬季衡→伊勢家(・後北条家)
   │      │            └正衡─正盛→六波羅平氏
   │      └繁盛┬維茂→城家・岩城家(海道平氏)
   │           └維幹→大掾家(・小栗家)
   ├良兼
   ├良持/良将─将門
   ├良文─忠頼┬将恒→秩父家(・平姓畠山家・河越家・豊島家・江戸家・葛西家・小山田家・渋谷家)
   │        ├忠常(忠恒)→上総家・千葉家(・相馬家・東家)
   │       └頼尊→相模中村家(・土肥家・小早川家)
   ├良茂→三浦家(・和田家)・鎌倉家(・大庭家・梶原家・長尾家)・長田家
   └藤原維幾夫人(為憲母)

〈六波羅平氏系図〉

正盛┬忠盛┬清盛─────┬重盛┬維盛─六代(妙覚)
   └忠正├家盛       ├基盛├資盛→頼綱(得宗家内管領)・長崎家(?)
       ├経盛─敦盛など ├宗盛├清経
       ├教盛─教経など ├知盛├有盛
       ├頼盛        ├重衡└師盛
       └忠度        ├知度
                   ├清房
                   ├徳子(高倉中宮、安徳母)
                   └盛子(藤原(近衛)基実夫人)

〈桓武平氏高棟流系図〉

高棟─…┬時信┬時子(清盛夫人)
      │   ├時忠
      │   └滋子(後白河女御、高倉母)
      └信範→西洞院家など

九羅香「関東の武士が大勢出ているけど、まさかこれも全部平氏なの?」
静「ご名答です〜。一部の例外を除きまして、高望王の末裔は坂東――今では関東と呼ぶ事が多いですが――に居を構えました〜。どこかで聞いたような話ですが、桓武平氏でもこの時期から一族同士での争いが起こっていますね〜」
与一「承平の乱の頃の事だな。下総にいた将門が、常陸にいた伯父の国香(良望、常陸大掾)と対立してついには攻め殺してしまっているな。もちろん将門は、乱の追討に加わった貞盛(常陸大掾)に親の仇を取られるわけだが」
弁慶「将門っていえば、新皇と称して関東に独立国家を建てようとした奴だよな?」
静「とは単純に考えられませんけどね〜。元々反逆者になったのは、同盟していた相手が常陸の国衙に睨まれて、その仲間を援護しようと国衙を焼いてしまったからで、その後の行動はいわば、『毒食らわば皿まで』というアレでしょう〜」
九羅香「……じゃなけりゃわざわざ、京の帝に地位を認めて貰おうとしたりしないもんね」
紅葉「ともあれ、将門様が起こした戦乱は、後々まで坂東のみならず日本全土で伝説化する事になりますわよね。……歴史に弱い弁慶様でさえ将門様をご存知なのですから」
玲奈「知ってる知ってる! 将門には6人の分身がいたとか、念じるだけで暴風を起こす力があったとか! で、本体の見分け方を愛人から密告された藤原秀郷が、神様の加護を受けた矢を放つと、矢は将門の眉間に当たって仕留めるんだけど、まさかこーいう世界だから将門も神機みたいな代物を使っていたわけじゃないだろうな?」
九羅香「若い頃に京で藤原純友と出会って、乱を起こすときには協力するぞー! って誓い合ったなんて話もあるよね」
知盛「……純友が乱を起こした(というか、正確には国衙の官人と喧嘩して反乱扱いされた)のは少し後だから、共謀の事実はないだろうがな。また純友の反乱の際には、京から直接追討軍が出されているのが大きな違いだろう」
教経「目には瞳が2つあったなどという、ほとんど項羽の二番煎じ(というか帝舜の三番煎じ)のような話もあったな」
弁慶「京で晒された首が故郷を目指して飛び立って、神田で力尽きて供養されたっていう話なら知ってるぜ。オレは東京に住んでいたから、皇居の近くの首塚を見た事があるし」
九羅香「神田? そんな所が内裏の側にあったっけ?」
紅葉「さあ……でもそんなすぐに力尽きて落ちるのは、ちょっと将門様の首には似合わないですわ」
与一「神田というのは江戸の近く、隅田川(古隅田川。古利根川と元荒川が春日部で合流してから下流)の河口の辺りだ。まさかあんな所に未来の皇居があるとはな」
静「少々将門さんで盛り上がりましたけど、そろそろ話を続けていいですか〜?」
知盛「うむ。こうして坂東各地に広がった平氏の一族は、後に坂東八平氏と総称される事になる(なお、八平氏の『八』がどれを指すのかは見解が統一されていない)。その大半が現在では、鎌倉の味方として我々の敵に回っているな。もっとも鎌倉の源氏の隆盛も、平直方から地盤と血筋を受け継いだ所が大きかったはずだが」
玲奈「……それについては前に説明したし、とっとと知盛達の先祖に移ろうぜ」

・伊勢平氏

与一「伊勢平氏というのは、貞盛の子供である維衡に始まる家系だ。伊勢の北部に本拠を構えると同時に京で官職にも就くという、摂津源氏や河内源氏と同じ活動をしていたのだ」
玲奈「でもしばらくの間は頼義や義家のような有名人も出さずに、伊勢北部(及び近隣の尾張・伊賀)ローカルの武士として、同族間の抗争を繰り広げつつ低迷していたんだよな」
静「確かに有名人はいませんけど〜、悪い方面の有名人もいませんよね〜」
九羅香「だからやめてよそーいう話題振り……」
与一「しかし維衡の曾孫である正盛が、伊勢移住以来100年以上の雌伏を打ち破り、白河法皇とコネを作って政界に乗り出す。そして名を挙げた第一の事件が、静殿が言われた『悪い方面の有名人』の1人の追討だ」
玲奈「ああ、九羅香の曾祖父さんだな」
紅葉「玲奈様、いくら本当の事だからって失礼ですわ」
知盛「後ろ向きにしゃがんで泣いている義経はさておき、これを契機として私の曾祖父は海賊追捕や寺院の強訴阻止を担当するようになり、また白河法皇の近習として各国の国司を歴任、寺院の建立にも多く携わる。その子であり私の祖父である忠盛も、鳥羽法皇に仕えて院の執事となるに至った。ここから先はまた今度の話だな」
九羅香「…………しくしくしくしくしくしくしくしく」


・藤原氏

紅葉「さあ、次はわたくし達藤原氏に関してですわね♪」
玲奈「まさか今回は、法皇の側近をしているあの公卿が出るんじゃないだろうな?」
与一「確かに公卿だからといって藤原氏とは限らないが、宮中に詳しいので来て頂いた」

ぴぃ〜っ、ぴいい〜〜っ♪←笙の音。
ぽん、ぽぽんっ♪←小鼓の音。

玲奈「うげ……このゲームにはまともな男性キャラがいねぇのかよ……」
公卿「はっはっは、苦しゅうない。義経殿以外は無位無官であっても、わしはあくまでも院に仕える身でおじゃるからな」
弁慶「苦しゅうしろと言われても、オレは未来人だから無理なんだが……」
九羅香「ともあれ有難うございます公卿殿。この弁慶にも分かるように、藤原氏について話を伺いたいのですが……」
公卿「うむ。藤原氏というのは、元は中臣氏から派生した氏族なのでおじゃる。中臣氏は神代……弁慶殿の時代で言うなら先史時代から朝廷の神事に携わっておったが、大化の改新で蘇我本宗家を滅ぼし、孝徳天皇や天智天皇に仕えて律令体制の基礎を築いた鎌足が、天智天皇8年(669)に世を去る直前に大織冠の位と藤原の姓を授かったのが、新しい氏族としての藤原氏の始まりでおじゃる。おおよそ、今から500年以上昔の話じゃな」
静「藤原氏は鎌足さんの息子の不比等さんが継いで、その四人の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂により南家・北家・式家・京家に分かれました〜。ワタシ達の時代の朝廷では〜、南家と式家は平安初期までに有力者が失脚したために学者として仕えているくらいで〜、貴族の皆さんは全て北家ですね〜」
与一「武門の家として名を挙げている一族も、源氏や平氏に劣らず多いのだがな。この系図を見れば、大雑把だが分かってもらえるだろう」

〈武家中心・藤原氏系図(一部)〉

鎌足─不比等┐
┌─────┘
├武智麻呂→保昌保輔為憲・道憲(信西)・季範(熱田大宮司/千秋家)・工藤家伊東家二階堂家吉川家など
├房前────┬八束/真楯─内麻呂┬真夏→日野家(・大谷家)など
├宇合→忠文・ │             └冬嗣──────────────┐
└麻呂  明衡 └魚名┬鷲取→利仁・元命・山蔭・斎藤家長井家安達家伊達家など
               ├末茂→四条流/家成・成親(後白河近臣)・四条家など  │
               └藤成─豊沢─村雄─秀郷千春奥州藤原氏     │
                               └千常佐藤家首藤家波多野家伊賀家近藤家(・大友家)・
                                    武藤家(・少弐家)・藤姓足利家小山家結城家など
┌─────────────────────────────────┘
├長良┬清経→高倉家など
│   ├遠経─良範─純友
良房基経(良房養子)┬時平
│   └高経→道綱母  └忠平実頼頼忠
│                   ├師輔───────────┐
│                   └師尹→飛騨姉小路家(閑院流姉小路家とは別家)
└良門→紫式部・宣孝(紫式部夫)・勧修寺流/惟方(二条近臣)・吉田家・葉室家(・上杉家)など
┌───────────────────────────┘
伊尹
兼通
兼家道隆隆家→基成(秀衡正室の父)・信頼・池禅尼(平忠盛正室)・牧の方(北条時政後妻)・
│   │         (一条)長成(源義経義父)・良成(義経同母弟)・坊門家・水無瀬家など
│   ├道綱(源頼光娘婿)
│   ├道兼宇都宮家伊沢家(・留守家)など
│   └道長頼通師実師通─────────────┐
│        │        ├家忠→花山院家など         │
│        │        ├経実→経宗(二条近臣)・大炊御門家│
│        │        └忠教→難波家など           │
│        ├頼宗→中御門流/(一条)能保(源頼朝妹婿)・中御門(松木)家・持明院家など
│        ├教通                            │
│        └長家→御子左流/定家・冷泉家(・播磨下冷泉家(藤原惺窩実家))など
└公季→閑院流/三条家・西園寺家など                  │
┌────────────────────────────┘
忠実忠通┬(近衛)基実基通→近衛家・鷹司家(・吉井松平家)
     └頼長 ├(松殿)基房師家
         ├(九条)兼実─(月輪)良経→九条家・二条家・一条家(・土佐一条家)・鎌倉九条家
         └慈円

太い文字は摂政・関白
赤文字は武士の家、および自分が主体となり武功を立てた/武力で犯罪・反乱を行った人物

弁慶「かなりあちこちにいるんだな。……系図の一部が子孫の列記で膨れ上がってるけど」
与一「このせいで『本当は藤原氏じゃないのに嘘付いてるんだろー』と難癖を付ける未来人も多いようだが、戦国時代や江戸時代ならともかく、武士の大半が在庁官人や荘官だった平安時代なら、中途の人名はともかく、大雑把には信憑性もあるだろう。承平の乱や前九年の役の頃には既に、脇役でも源氏や平氏や藤原氏が無闇やたらと出てくるからな(汗)」
紅葉「わたくしが言うのも何ですけど、どのような方々が藤原氏の武士にはおられたのでしょう?」
玲奈「南家だと、九羅香のご先祖の満仲や頼光と同じ頃に、検非違使の保昌・強盗の保輔という、物凄く印象の強い兄弟がいたんだよな。保昌は和泉式部の2人目の夫としても有名だし、摂津源氏の頼光と組になって伝承に現れる事もあるぞ」
九羅香「それで近頃だと、伊豆の工藤家の一族……伊東とか河津とかの他に、兄上や足利義兼殿の母上の実家である熱田大宮司家がいるんだよね」
弁慶「でも、大宮司が武士っていうのは何かの間違いじゃないか?」
静「大きな神社の神職というのは、領地のみならずその周囲まで影響力を及ぼしますからね〜。特に熱田の大宮司さんは、南家の人が尾張氏の宗家に婿入りして継承したので、本邸も京にありますから、神職というより武家貴族と思った方がいいでしょう〜」
玲奈「未来の戦国時代の大宮司だって、当主が続けて戦死して、織田信長に神職に専念してくれって言われてるもんな」
公卿「ちなみに大宮司殿の家系は、今の法皇に側近として仕え、平治の乱で義経殿の父御に追い詰められて自害した道憲(信西)殿の家系にかなり近かったでおじゃる」
与一「南家の者とて才能が劣る事はないが、北家も公家だけでなく武家をも多く出している。単発的な武人としては、鎮守府将軍にして芋粥の話で知られる利仁殿、伊予の日振島を拠点として海に勢力を拡げていた純友、刀伊の来寇を打ち払った大宰権帥の隆家殿があるが、やはり最も栄えたのは、平将門を討ち、後に鎮守府将軍ともなった秀郷殿の子孫だな」
静「でも秀郷さんは〜、京で問題を起こして下野に流されたり、その後も散々争いを起こしていたんですよね〜。まかり間違えば逆に追討される立場だったかもしれません〜」
九羅香「それに安和の変で息子の千春が失脚したせいか、特に中心も作れずに一族が分散しちゃったけどね」
与一「正確には九羅香殿の先祖が失脚させたようなものだが……で、私や紅葉も秀郷殿の血を引いている。那須家は首藤家の一族なので、私と紅葉は比較的近い縁続きとなるな」
紅葉「佐藤家の本家筋は紀州の佐藤家で、その当主であられたお方が佐藤義清こと西行法師ですわね。出家される前は、院の北面の武士を務めておられました」
静「もう少し未来の話になりますが〜、勧進の旅の最中に鎌倉に立ち寄った時、頼朝さん自ら武術の伝授を請うているほどのお方ですよ〜」

・奥州藤原氏

与一「次は奥州藤原氏だな。この家は、那須家や佐藤家と同じく、秀郷殿の末裔の一族だ」
弁慶「と言っているだけで、本当は蝦夷の一族だろ?」

ずど。

紅葉「違いましてよ弁慶様?」
弁慶「ぐあああ〜〜っっ!! 今度は鉾先に柚子の絞り汁が〜〜っっ!!(悶絶)」
静「口は災いの門という言い伝えを覚えておいた方がいいですよ〜。系図では途中の人名が確定していない部分もありますが〜、自他共に秀郷流と認めていたのは確かな事ですからね〜」
公卿「藤原氏で編集している有位者一覧に、先祖の経清殿も今の秀衡殿もしっかりと載っているでおじゃるよ。……名前が『秀平』と誤記されているでおじゃるが」
九羅香「未来で清衡殿から泰衡殿まで4代の即身仏状の遺体……いわゆる自然ミイラを調べたら、特徴は未来(よーするに、未来から見れば『現代』)の京都に近いものが多かったんだって」
弁慶「それってどーゆー事だ?」
玲奈「いーもんばっか食べて、顎が華奢になってるという意味だってよ。江戸幕府の将軍も、小さな大名のお坊ちゃんだった初代から代を下るごとに、骨格が細くなってるそうだぜ」
九羅香「まあ確かに京の公家達が蛮族呼ばわりする事もあるけど、それは在地の住民なのに陸奥守になったり、贅沢な仏像を大量発注したり、向こうから見て気に食わない時が普通だよ?」
与一「京の連中は、庶民でも関東から来た私達を平然と蛮族呼ばわりするからな。『やーい東夷東夷』と悪餓鬼どもが囃す度に、せめて全殺しは止めて半死半生で見逃してやるのに、どれだけ我慢してやった事やら」
紅葉「お優しいのですわね与一様。わたくしは自分では我慢しますけど、従者達が『あいつらを永久に無口にしてやんべ』というのをついつい見逃してしまいますし……」
玲奈「取り締まらなくていーのか検非違使判官?」
九羅香「無礼討ちはオッケー!(断言)」
弁慶「……オレがこのコーナーで紅葉に暴行されるのも、もしかして無礼討ちの一環じゃないだろうな……」
公卿「話を続けるでおじゃるが、奥州藤原氏の先祖は、先程の系図にも出ていた通り、平将門を倒した秀郷に遡るでおじゃる。経清は陸奥に下向して奥六郡……弁慶殿の時代で言うと平泉から盛岡までの一帯を支配する安倍頼良(頼時)の娘婿となるが、前九年の役で源頼義と出羽の山北三郡……未来で言う秋田県北部を領する清原氏に滅ぼされ、後家殿は幼い息子の清衡を連れて、清原武則の息子である武貞に再嫁したでおじゃるよ」
与一「しかも武貞の所には既に、先妻の息子である血の繋がらない兄の真衡が存在し、再婚後には家衡という弟まで生まれ――」
九羅香「ちょっと待って与一。全員同じ『衡』の字が入ってるよね? それって清衡も清原一族として認められてたって事?」
与一「通字が共通している以上、そう考えるのが普通だろうな。もっとも親の生前に名付けた場合でも、藤原氏と清原氏はどちらも母方が海道平氏(平国香の子孫)に繋がっているため、そちらの通字でもある『衡』を引き継いでいたのかもしれんという意見がある」
紅葉「そして後三年の役で他の兄弟を打倒して、安倍氏と清原氏の両方の勢力圏を引き継いだ清衡様は、姓を藤原に戻して奥州藤原氏の開祖となられましたわ。……清原氏一門の奥方と初めのお子様達は敵に皆殺しにされてしまい、海道平氏から新しく奥方を迎えましたけれど」
公卿「さて奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡と3代に渡り、押領使(武装集団の追捕機関)などの公職を歴任し、また摂関家領の預所として荘園の在地管理にあたったのでおじゃる。信夫の佐藤家が主従関係を結んだのも、荘園管理を通じての関わりでおじゃるな」
与一「のみならず、北辺の勢力圏を更に拡張する形で、本州の最北端である糠部や津軽まで郡を建て、領内の馬と金、そして蝦夷ヶ島(北海道)との交易でも潤っている。本拠である平泉に建立した寺院の素晴らしさの一部は、弁慶の時代にも垣間見る事ができるぞ」
静「もっとも本当に勢力が及んでいるのは、元来の本拠地である北上川の流域を中心とした一帯ですからね〜。別に奥羽を完全支配している訳ではありませんので、国衙がある多賀城の在庁官人達は、平泉に従って行動している訳ではありませんから〜」
九羅香「でもおかげで六波羅平氏の勢力が及ばなかったから、わたしが平泉に潜伏する事ができたんだけどね」
公卿「そういう事もあり、六波羅平氏は懐柔の意を込めて秀衡殿を鎮守府将軍や陸奥守にしたのでおじゃるが……これから平泉がどう動くのかは教えてくれんかの弁慶殿?」
弁慶「あ〜〜、それはオレの知ってる歴史と最終的にはズレるのでパスさせて下さい(汗)」


・その他の氏族

九羅香「多過ぎるから省略!」
玲奈「待て〜!!」
九羅香「でも、この時代には古代の氏族も大半が存続しているから、地方のマイナーな姓までほじくり出していると本気できりが無いんだよ?」
静「鎌倉だけでも、大江氏(→長井家、毛利家)、三善氏(→三善姓太田家(問注所執事)、飯尾家)、中原氏、大中臣氏、惟宗氏(→島津家)とかがおられますからね〜」
与一「後世にそのままマイナーな姓を伝えるのは大半が神職だが、戦国時代の武士にも神氏(諏訪家)、海野氏(真田家)、惟宗氏(神保家)、日下部氏(朝倉家)、紀氏(浦上家)、多々良氏(大内家)、越智氏(河野家)、秦氏(長宗我部家)、大蔵氏(原田家)、宇治氏(阿蘇家)などが存在している。大祝諏訪家と大宮司阿蘇家は神職でもあるし、なぜか大半が西国に集中しているが」
玲奈「一般人の名字でも、穂積氏(鈴木家)とか、古代氏族に遡れる所がいくつかあるもんな」


◇当時の政治体制について〜権門体制実施中〜◇


与一「では、次は政治体制の講義に入ろう。弁慶の時代と800年を隔てた我々の時代は、歴史学では中世の初頭とされている。昔(といっても弁慶から見た場合だが)は平氏政権までを古代として、鎌倉幕府の成立に中世の開始を置く研究者が多かったが、弁慶にとっての現在では院政の確立に中世の開始を置く方が普通だ」
静「講義に対する抗議は認めませんけど〜、質問はどんどんしちゃって下さいね〜」
弁慶「だから静さん、ダジャレをいーかげんによして下さい(泣)」


・まずは京都から

静「え〜〜、この時代の日本を統治しているのは、分かりきった事ですが京の朝廷ですね〜。統治機構のほぼ全てを武家政権に吸収されるのは室町時代に入ってからですけど、その後も儀礼関係を中心として活動は続き、明治時代に入ると共に発展的解消を遂げます〜」
弁慶「え? 朝廷って鎌倉幕府が成立すると有名無実になるんじゃ……」
九羅香「ああ、それって昔の研究者の勘違い。なにしろ鎌倉時代の歴史の研究の歴史は江戸時代に遡るから――ややこしいなぁ、もう――、つい鎌倉幕府と江戸幕府を重ねて見ちゃったんだろうね」
静「鎌倉幕府の力は承久の乱で後鳥羽上皇に勝利した頃から上皇様方を上回るようになりますけど〜、だからといって朝廷を無視できるわけではありませんからね〜。ですから鎌倉時代を鎌倉時代と呼ぶ事自体、ちょっと異議ありかもしれません〜」
玲奈「この辺の見解については、黒田俊夫って学者の「権門体制論」を参照だってよ。よーするに、天皇を中心として公家(皇族(王家)や貴族(王臣家))・武家(幕府など)・寺家(大きな寺院や神社)があって、相互依存しながら競合し合うという仕組みの事だけど、これに近い見方をするのが公家文化を継承した京都の研究者に多いってのが面白い所だよな」
与一「それはともかく、今の朝廷は、昔に作られた律令の制度を、国情や時宜に応じて変化――悪く言うなら逸脱――させながら用いている。その中心となる組織は太政官で、摂政だろうと関白だろうと上皇だろうと、政治抗争で出し抜いたり介入したりする事はできても、これを全く無視する事はできん。いささか先例主義が激しいきらいがあるが、(我々の視点では)未来人が誤解するように遊んでばかりいたわけではないぞ?」
紅葉「ではこちらを御覧下さい。朝廷の中枢機構である太政官の組織図です」

〈平安後期対応・太政官組織図〉

 天皇(別名は「帝」「主上」「天子」など)
 │
 ├太政大臣・摂政/内覧/関白 …臣下代表、天皇の最高顧問
 │※太政大臣は存在しない事もある、摂政/内覧/関白は太政大臣や左大臣と兼任
〈陣定(仗議)〉 …高位貴族による国政会議
 左大臣
 右大臣
 内大臣
 大納言
 中納言
 参議
 ※蔵人所・近衛府の上官を基本的に兼任、上卿(議長役)は議題の責任者が担当
 ├─┬────┬────┐
 │ 〈少納言局〉〈左弁官局〉〈右弁官局〉 …事務・通達部局
 │  少納言   左大弁   右大弁
 │  大外記   左中弁   右中弁
 │  小外記   左小弁   右小弁
 │  (以下略)  左大史   右大史
 │         左小史   右小史
 │         (以下略)  (以下略)
 ├─────┬──────────┬────┐
〈太政官八省〉〈その他の中央官〉    〈地方官〉  神祇官 …実務担当部局
 中務省    蔵人所 (…天皇の近侍) 大宰府
 式部省    左右近衛/兵衛/衛門府  国(合計68)
 治部省    検非違使庁 (…京の治安維持・衛生など担当、別当は公卿と、他は衛門府と兼任)
 民部省    左右京職 (…京の本来の統治担当)
 兵部省    その他
 刑部省
 大蔵省
 宮内省

与一「八省などの詳細は省略してあるが、その辺は了承してもらいたい。元々律令にない役職は令外の官と呼ばれ、中でも蔵人や検非違使は特別で、名目的であっても必ず律令の官と兼任しなくてはならん」
弁慶「分かったけど、知盛の『権中納言』ってのはここにはないのか?」
九羅香「『権〜』と付くのは権官って言って、よーするに仮任命、員数外って意味なんだよね。だから先に中納言がいて定員が埋まっていても、権中納言になるのは構わないわけ。……この時代だと大納言や中納言は正官の方が珍しいんだけど」
玲奈「これらの官職名は後世に、官職を授与されていない武士の私称や、『〜左衛門』『〜兵衛』といった庶民の人名にまで用いられるようになるぞ。ネタが尽きたのか、中には実在しない官職モドキの名前もあるけどよ」
弁慶「宮内省典薬寮の針師・呪禁師とか、中務省陰陽寮の陰陽師とか、衛府系官庁の番長とか、面白い官職も結構あるんだけどなぁ」
九羅香「……弁慶の感覚は理解し難いけど、この中で一番重要な意思決定機関は――厳密には機関としての形は取っていないけど――、左近衛府にある陣座(仗座)で、上卿を主催者として行われる陣定なんだ」
弁慶「要するに、オレ達の時代の国会みたいなもんか?」
九羅香「多数決原理は採用してないし、意見が分かれてもまとめずにそのまま帝や摂政・関白に報告するから、議会とは随分違うような気がするけどね」
静「御堂関白こと藤原道長さんが、陣定に参加するために左大臣で居続けて、とうとう関白(当時は必ず太政大臣と兼任)にならなかったのは〜、知る人ぞ知る、知らぬ人は全然知らぬ事ですよ〜」
玲奈「で、他に重要なのはどんな所だよ?」
紅葉「帝の側近であられる蔵人所や、都の検断(警察権・裁判権の行使)を司る検非違使庁でしょうか。ついでに他の権門お抱えの組織も、ほんの一部ですが御覧下さい」

〈院司組織図〉

 上皇・法皇・女院(総称して「院」)→天皇の尊属として天皇へ影響
 │
〈院庁〉
 別当
 執事
 (以下略)
 │
 政所─公文所
 蔵人所
 文殿
 御随身所
 進物所
 御厩
 北面(女院には無し)
 その他
 ※通常は太政官の官職と兼任

〈摂関家家司組織図〉

 摂関家当主≒藤氏長者→摂政・関白などとして天皇へ影響
 │
 執事
 (以下略)
 │
 政所─公文所
 蔵人所
 侍所
 その他
 ※他の貴族家でもこれに準じる

与一「これらの家政組織は、所属する荘園にのみ統治範囲が及んでいる。たとえ院庁執事だろうと摂関家執事だろうと、知行国でもなければ他の所領に影響を及ぼす事はできん」
弁慶「ちぎょーこく?」
九羅香「有力者を特定の国の知行国主に指定して、その一族や家臣を国司に出さなくちゃいけない代わりに、その国の公領の税を手にできるって制度なんだけど。時々入れ替わりもあるから、領地っていうのとはだいぶ違うよね」
紅葉「……寺院や神社にもそれなりの、所領支配や武力行使まで含む組織がありますけど、店主様が資料を見付けられなかったので省かせて下さいませ」
玲奈「へー。蔵人なんかは貴族の所にもいるんだな」
静「ちなみに貴族の家政組織は、鎌倉幕府の組織の源流にもなっています〜。政所とか侍所とかは聞き覚えがあるでしょう〜」
弁慶「でもオレ、日本史が赤点すれすれだしー……(涙)」


・地方の仕組み

静「さて次は〜、京の外を紹介します〜。この頃の国々は、公領半分私領半分といった感じで、国衙領と荘園の割合がほぼ半々で拮抗しています〜」
弁慶「国衙領?」
九羅香「朝廷の直轄下にある、国の役所を国衙と呼ぶの。国衙の周りには、国守の屋敷とか役人――在庁官人の家とか工業製品を作る作業場とかが、所々間隔を開けながら広がってて、その全体を国府と呼ぶんだ。いちおーは町と呼べるかもしれないけど、弁慶には大きな集落にしか見えないかもしれないね。で、その国衙の直轄領が国衙領ってわけ」
与一「院政が盛んになってから随分と荘園も増えたが、各地の国を見ると、平均して半分ほどが荘園にはならずに、国衙領として留まっている(特に、国衙の近辺はほぼ確実に国衙領だ)。公領は錐を立てるほども残っていないとか書いた人物もいるが、これはあくまでも荘園の増加を批判するための修辞なので注意するようにな?」
玲奈「ま、国衙領だって役人連中が大抵は自分の領地にしちまって、実態は大して変わり映えしないけどよ。ちなみにこれとこれが、国衙と荘園の組織図だ」

〈国衙組織図〉

 知行国主
 ※院・公卿・(鎌倉時代の)幕府などの有力者、傘下の人物を国守に任命する権限を持つ
 │
〈国衙(国府)〉
 守(かみ)
 ※上総・常陸・上野では守は存在せず皇族が「太守(たいしゅ)」となるため、実質的な長官は介
  権守・介が代理の長官となるか名代として目代が派遣される事もある
 │
 介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)
 ※厳密には以下の通りだが、時代により相違
  大国…介・大掾・少掾・大目・少目
  上国(大半の国はここ)…介・掾・目
  中国…掾・目
  下国…目
 │
 在庁官人
  留守職
  総検校
  税所
  田所
  調所
  厩別当
  検非違所─検非違使
  押領使
  追捕使
  介(押領使など各職を併有、関東に多い。都で任命する「介」と混同しないように注意)
  その他多数、国により相違
 │
〈郡・郷・院・別名(官人の所領化した地域、郷・保・別名(別符名)・村など名称は様々)〉
 郡司・郷司など名称は様々
 │
〈名〉
 名主

〈荘園組織図〉

〈本所〉
 本家
 ※ほとんどが皇室か摂関家(もしくは関連する寺社の名義)、領家の力が強ければ存在しない事も
 │
 領家
 ※一般的には中級貴族や寺社だが、朝廷の官庁や幕府という例もある
 │
 預所
 ※領家の腹心か在地の有力者、政務を本家が行っている場合は領家を指す事も
 │
〈荘・保・厨・園・牧・杣・院・別名など〉
 下司・荘司・荘別当・荘検校など名称は様々
 ※鎌倉時代の「地頭」はここに相当、傘下には公文・田所・案主・押領使・惣追捕使など、全体を総称して荘官
 │
〈名〉
 名主
 ※畿内ではほぼ均等な収納単位、遠隔地では不均等で名主の所領としての性格が強い事が多い

静「見れば一目瞭然でしょうけど、律令に記されている制度とは随分違いますよね〜。統一性が全然ないので、未来の人には無茶苦茶に見えるかもしれません〜」
紅葉「特に荘園は、統一された法律により制定されたわけでもありませんし、規模も内実も統一性が全くありませんわ」
与一「例えばだ。私のいた那須荘は那須郡の大半を占めるし、紅葉がいた信夫荘は信夫郡そのものだが、畿内には細切れの田地が少しずつだけ、しかも住民がおらずによそから耕作に来るような荘園もある。その一方で九州の島津荘は、日向・大隅・薩摩の3国の田地の大半を占める日本最大の荘園だ……もっとも相当量の寄郡(半ば国衙領)も含んではいるが」
九羅香「一般的に荘園は、畿内に近いほど小さく、遠くなるほど大きくなるんだ。もちろん数は畿内に近いほど多いから、占める面積の割合が変わるわけでもないんだけどね」
弁慶「この時代には関係ないけど、幕府領の荘園なんていうのがあったのかよ?」
静「その通りです〜。鎌倉幕府は既存の制度に依拠して支配権を伸ばしていましたので、荘園に地頭を置くだけでなく、国衙を通して在庁官人を支配下に入れたり、弁慶さんの言われたように幕府領(関東御領)の荘園を手に入れたり、幕府が知行国主となって有力な御家人を国守にしたりしています〜」
与一「それに、荘園だからといって国衙に全く税を納めないとも限らない。この時代の税には官物(土地に賦課する年貢)と雑役(人に賦課する夫役)があるのだが、この2つの納入先が違うなら、どういう事になるか分かるだろう。他にも国衙領・荘園のどちらにもある保や別名、さっき名を出した寄郡なども、双方の中間的な存在である事が多い。更に朝廷が大行事に際して賦課する一国平均役は、全ての土地で出さなくてはならん」
玲奈「多々例外あり……って事だよな」
九羅香「こういう国衙領の在庁官人や荘園の荘官はほとんど武士化していて、特に上位者の縛りの緩い国衙領や貴族系荘園だと、都の武門と主従関係を結んだりする事があるんだ。それを集大成させたのが鎌倉幕府なんだけど、平氏政権もそれを試みていたらしいんだよね。冷遇された側がみんな鎌倉に付いちゃって、意外とあっさり関東だと破綻してたけど」
与一「ついでに言うならば、この時代の武士も、所領を持つ以上は田舎に引っ込んでいたわけではない。税を京に送るだけでなく、義務として大番役を勤めているのだ」
弁慶「……基本的な事で悪いけど、大番役って何の事だ?」
紅葉「地方の武士に義務として課せられた、京に上って内裏を守衛する役の事です。与一様が昔、まともだった頃の敦盛様の笛の音を聞いたのは、一族代表として大番役を勤めていた時の事ですわ」
九羅香「平安時代の半ばに始まったっていうんだけど、詳しい理由は分かっていないんだよね。出費は辛いけど、義務として定着してるし、京で見聞を積んだりコネを作ったりしておけばあれこれと役立つって聞いてるよ」
与一「他に武士の働く場所としては、蔵人所の滝口、東宮(皇太子)の帯刀――義仲殿の父で九羅香殿の叔父、義賢殿が勤めていた所だな――、法皇や上皇の北面――西行法師の元職場だ――、九羅香殿が勝手に官職を貰って頼朝殿がお冠だった検非違使庁、公卿の家の侍所などがあるぞ」
静「もちろん上位の武士なら貴族の一員ですから〜、知行国主から国守にしてもらえる事も多いですね〜」


・身分について

与一「……は面倒なので、大まかな所だけ記しておこう。一部の用語は後世と認識のされ方が異なるので、その辺は注意しておくように」
紅葉「わたくし達の場合、ほとんど全員が侍身分でしょうけど、静様と平家側の廉也様は凡下になってしまいますわね。あ、九羅香様は検非違使判官になられてからは……」
九羅香「判官というのは『じょう』と呼ぶ三等官で、検非違使庁に出向者を出していた衛門府の大尉が従六位下、少尉が正七位上。この時代に七位以下は授けないから、六位相当だとするとやっぱり侍で構わないかな?」

  公卿…三位以上および参議以上
  殿上人…四位・五位で内裏の殿上に昇れる(昇殿できる)者
  (地下…昇殿できない者(稀に地下の公卿も存在する))
  諸大夫…四位・五位で昇殿できない者、上皇などの院司や摂関・大臣の家司の中心層
  侍…何らかの官職を持つ者(在庁官人・荘官など)、名字呼称の正式認可・体刑拷問の原則禁止などの特権を持つ、寺院の堂衆(≒僧兵)もほぼ同じ扱い
  凡下…一切の官職を持たない者、名字は正式には認可されない(ただし後には緩和)、裕福な者は後に「有徳人」と呼ばれるようになるが身分的には変わらない、後には「不特定の人間」を意味する「甲乙人」とも呼ばれるようになる
  下人…主人に人身的に隷属する者、上位の従者である郎従に対して「所従」と呼ばれる下位の従者とほぼ同義
  非人…社会組織から疎外された者、集団により呼称は様々


・外との関わり

静「ぶっちゃけ言いますと〜、現在の日本は外国と、いわゆる『公式関係』というものは一切結んでおりません〜。高麗や宋からは『あぷろーち』もあったようですが〜、大陸諸国の戦いに関わりを持つのを避けるためかみんな断っちゃいました〜」
知盛「我が六波羅平氏は九州から宋と交易をしているが、宋は唐や明と比べて開放的な国家でな。交易船から税を徴収するが、外国、特に日本のような遠方の国家に朝貢しろと強要する事はあまりない。おかげで正月に都に着くために風に逆らって遣唐使を出したり(例:奈良時代〜平安初期)、自分が日本国王だなどと嘘を付いて国内で評判を悪くしたり(例:室町幕府)せずとも良いわけだ」
弁慶「うわっ! ま、また知盛!?」
教経「またとはご挨拶だな我が宿敵よ。鎌倉末期に高麗の沖合で沈んだ新安沈船は、どうやら元から高麗経由で日本へ行く船だったらしく、磁器や銅銭やその他諸々をたっぷり積んでいたぞ……オレ達にとっては未来の話だが」
知盛「もっとも、全く関係が無いのもまずいので、時々僧侶を派遣して宋や高麗の朝廷とは繋がりを保つのも忘れてはおらん。室町時代に記された『元亨釈書』には、この時代の僧侶による外交もあれこれと記されておる。もちろん高麗とも交易はしておるが、宋との交易ほどの旨味はないので、あまり注目されてはおらんようだな」
教経「ちなみに輸入品の中心は、さっき言ったような磁器、銅銭、それに薬品や書物といった貴重品が中心だ。代わりに日本からは金、硫黄、扇子、太刀、蒔絵細工を輸出しているが、船には重い物も載せないと安定性に問題が出るから、九州の米も出していたんじゃないかって説を出している学者もいるぜ。……その真相は同時代人であるオレ達のみぞ知る、ってやつだが」
弁慶「ところで、それ以外との関係はないのか?」
静「国家間の関係はこれくらいですけど、それ以外の対外関係もありますよ〜。蝦夷ヶ島(北海道)の蝦夷の皆さんと、奄美や沖縄の住民の皆さんです〜」
知盛「蝦夷ヶ島との交易は奥州藤原氏に一手に握られているが、鷹の羽根やアザラシの皮といった、本土では取り辛い貴重な品を運んでくる。代わりに運び出す品物には鉄の鍋や刀など、生活必需品や威儀を整えるための品が多いようだな。奄美や沖縄には九州の商人が出向き、硫黄や夜光貝と引き換えに武具や石鍋を売り渡している。商人の中には島の見えない海を越え、宮古や八重山まで渡った者もおるそうだ」
静「ちなみに鹿ヶ谷事件で平家に対する陰謀が発覚した俊寛さんは〜、この当時の日本国の西南の果てとされていた喜界島(貴海、鬼界とも書く。現代のトカラ〜奄美方面の島々)に流されています〜。そんな所にも『平家物語』では硫黄買い付けの商船が来るあたり、言うほど辺鄙でもなかったようですね〜」
弁慶「……いくらなんでも実際には俊寛が硫黄を掘ってたわけじゃないんだろーが、でもカルチャーギャップも激しいだろうし、同じ流刑でも屋敷と従者と仕送り付きだった頼朝と比べて凄く不公平だよな……」
静「実は意外と、史実では温暖な気候で安らかな余生を送っていたのかもしれませんね〜」


◇平安末期近代史〜源源の合戦と平平の合戦へ〜◇


静「それでは〜、『少女義経伝』をより深く理解するための“近代史”の時間です〜」
九羅香「う〜〜ん、この時代にとっての近代史ねぇ……」
弁慶「何を悩んでいるんだ九羅香? 平安時代を全部やっちゃえばいいじゃないか」
与一「戯け者。平安時代は平安京遷都から鎌倉幕府成立まで、おおよそ400年に渡る長い時代なのだぞ」
弁慶「……ごめんなさい。でも与一だってここを書いてるヤツから話を聞いてるだけで――」

(全員で弁慶を制裁中)

弁慶「あだだだだ……」
九羅香「禁句でしょーがそれはっ! そもそもリアリティを追求し過ぎると、このコーナーどころかゲーム本編自体が成り立たないじゃない!」
静「弁慶さんの時代から400年前は〜、江戸幕府が成立したばかりですよね〜。こう言えばどれだけ長いかお分かりでしょう〜」
玲奈「そもそも平安時代といっても、桓武天皇や坂上田村麻呂→醍醐天皇や藤原時平・忠平兄弟→後一条天皇や藤原道長→白河法皇や源義家→あたし達の間に、それぞれ100年ほどが過ぎているからな」
紅葉「では、どの辺りから取り上げますの?」
与一「やはり定番通り、ゲーム時点から30年近く前の保元の乱からだ。これを想定して、清和源氏や桓武平氏の解説を保元の乱直前で止めていたようだからな」


・保元の乱前夜の情勢

与一「さて、まずはこの前話をしたが、河内源氏は一族の内部抗争が原因で急速に没落・分解し、代わりに伊勢平氏が院――上皇や法皇の方々、より厳密にはその傘下にある院司となっている中流〜下流の貴族と結び付いて勢力を増してきた」
弁慶「院司? ……ああ、この前話をした、院の荘園とかを管理する役職の事だな?」
九羅香「そーそー。皇室の家系が分裂していた頃に摂政や関白が主導権を握っていた頃とは逆に、皇室の家長であられる『治天の君』が政治を左右するようになったんだ。だから上皇がおられなければ外見は天皇(=治天の君)親政になるし、複数の上皇がおられれば先になった方の上皇(本院)が一番力を持たれたりするんだよね」
静「このような政治を一括して『院政』と呼びますが、その起源は後三条天皇の親政期に遡ると見られているようです〜。その後は白河天皇(上皇・法皇)から早世された堀河天皇を飛ばしまして、鳥羽上皇(法皇)へと引き継がれました〜」
与一「皇室の系図……をまた出すのは面倒なので、以前の回の系図を紐解いてはダメか?」
九羅香「ダメ」
与一「……仕方あるまい。分かりやすく注記を加えておくとしよう」

〈保元の乱中心・皇室系図〉

鳥羽法皇┬崇徳上皇/顕仁─重仁親王
      ├後白河天皇/雅仁┬守仁親王(二条天皇)
      ├八条宮       └以仁王
      └近衛天皇/躰仁

与一「こんなものだな。なお二条天皇の即位は保元の乱の後で(この時に後白河天皇が上皇になられている)、高倉天皇の御出生は平治の乱より後の事だ」
玲奈「えーと、この頃九羅香……というよりは『義経』は生まれてたのか?」
九羅香「『義経』が生まれたのは平治の乱の頃だけど、同じ母上から生まれた同腹の兄上達はどうだろう?」
静「さてさて、保元の乱より前の頃、皇室の治天の君は鳥羽法皇でした〜。実はこの鳥羽法皇、ご長男の崇徳天皇と非常に仲が悪かったのです〜」
与一「崇徳天皇や雅仁親王――後の後白河天皇――の母君の待賢門院(藤原璋子)は養父である白河法皇に溺愛され過ぎていたため、崇徳天皇の実の父は白河法皇ではないかという噂が根強く流れていた。鳥羽法皇もその噂を程度はともあれ信じていたのか、崇徳天皇を強引に退位させ、新しくお気に入りになった美福門院(藤原得子)の子を幼いのに即位させたのだ」
弁慶「……それで、近衛天皇が即位したのか?」
九羅香「うんうん。後白河天皇というか雅仁親王が後回しという事は、やっぱり待賢門院の子供は嫌だったからかな?」
与一「それもあるだろうが、近衛天皇が幼いままで亡くなられた後も、鳥羽法皇や近臣には雅仁親王の即位にかなり抵抗があったと伝えられている。もっとも私達にとっての今現在でも法皇として活動しているのを見れば分かるが、某天皇ほど致命的な問題ではなかったようだ」
九羅香「いー加減にして与一(怒)」
玲奈「ま、貴族連中の気持ちも分かるけどな。妙に移り気で、しかも喉を嗄らすまで歌い続けるほどの今様マニアなんか、言っちゃ何だが即位させるのは嫌だったと思うぞ」
紅葉「……おほん。しかし鳥羽法皇様としては、美福門院様の養子となっていた守仁親王様が本命で、雅仁親王様の即位は中継ぎのつもりだったと言われておりますわ。一部では、美福門院様の娘で多くの所領を相続した八条宮(後の八条院)様を推す意見もあったそうですから、相当大きな抵抗があったようですわね」
静「しかしその矢先に鳥羽法皇は亡くなられてしまい、後白河天皇の在位は長期化する事が決定したんですよね〜」
与一「もちろん崇徳上皇にとっては、自分にも息子があるのに、守仁親王が次の天皇になる事が約束されては面目丸潰れだ。しかし鳥羽法皇の元側近達は後白河天皇の側に雪崩込んだもので、自前の勢力もろくにないときている」
弁慶「で、保元の乱を起こしたのか?」
静「結果的にはそうなりますけど〜、その前にお二方を取り巻く臣下の話を致しましょう〜」

与一「さてこの当時、鳥羽法皇の近臣の有力者に藤原家成という人物がいた」
弁慶「また藤原かよ?」
与一「そうだな。しかし家成殿の一族である四条流の六条家(南北朝時代に断絶。後の時代の村上源氏六条家とは関係ない)は、北家の本流から分かれたのが奈良時代なのだから、摂関家とはほとんど(那須家や佐藤家と同じくらい)縁もない一門だ」
九羅香「この辺の詳しい所は、前に見てもらった藤原氏の系図を参考にしてね」
静「しかし家成さんのお父上の顕季さんが、お母上が白河天皇の乳母だったために出世したのです〜。美福門院さんも顕季さんのお孫さんですから〜、一門ぐるみで摂関家を見返していたわけですね〜」
玲奈「伊勢平氏が中央政界に再登場したのも、ここの一門と仲が良かったからなんだよな。この辺は地元情報でもあるからよく知ってるぜ」
弁慶「乳母ねえ……。外戚云々はよく聞くけど、学校だとそこまでは習わないよなぁ」
与一「昔とは違い、今の時代は乳母人脈が『ぶーむ』だからな。新しく即位された後白河天皇の乳母の夫、藤原通憲(信西)殿も、

・学者の家系の生まれで、一時は受領の高階氏に養子に出ていたが、より昇進するため藤原氏に復帰。
・それでも南家出身なので、少納言まで昇進したところで官位に見切りを付けて出家。
・更なる上昇を図るため、雅仁親王(後白河天皇)の乳母と再婚、鳥羽法皇に重用される。

 ……という過程を踏んでいる」
九羅香「それじゃあ、この頃の摂関家はどうなってたの?」
紅葉「摂関家は久しく国母……天皇の母となられた女性を出しておらず、皇室との血縁関係は薄れてしまっておりました。外戚を出した藤原氏閑院流や村上源氏に一時的とはいえ圧迫された事もありましたし、おかげで上皇様方とはこの頃、友好関係にあっても力関係は逆転しておりましたわ」
与一「おまけにこの当時、当主であった太閤(元関白)忠実殿は嫡子の関白忠通殿ともいがみ合い、既に譲ったはずの藤氏長者の位と代々伝えてきた朱器台盤、それに多くの荘園を無理やり取り上げて、忠通殿より23歳も年下の弟の『悪左府』、左大臣頼長殿に渡してしまったのだ」
弁慶「頼長って……あのホモ大臣?」

(どがらんがらんがらん!!)

紅葉「あ……あのですね弁慶様……っ」
与一「頼長殿の名誉挽回のために言っておくが、ちゃんと女性にも興味があって子供もいた、つまりはホモでなくてバイだからな」
静「頼長さんは唐や宋の学問には熱心な方でしたけど性格がかなり悪く〜、放免された容疑者に対して男色相手に殺人指令を出して、それを日記に堂々と書いて喜んでいたり〜、先ほど名の出た家成さんの家に殴り込みを掛けさせたり〜、路上で出会った武士に、相手がきちんと礼を払っているのに因縁を付けて従者に襲い掛からせたりと〜、まさしく『悪左府』、よーするに『猛々しい左大臣』の名をほしいままにしていました〜。頼長研究家として後世で名高い花園天皇も、さすがに呆れ返っておられたそうです〜」
九羅香「……この時代の武士は乱暴だ乱暴だと言われるけど、お公家さんだって十分過ぎるほど乱暴じゃない」
紅葉「ま、まあそーゆー訳で、頼長様は家成様の主人であられる鳥羽法皇様からの心証を激しく損ねてしまい、政治的立場を危うくしてしまったのですわ。しかもお母様の身分が低くて実家が頼りにならない上に、奥方が亡くなられたせいでそちらの実家とも疎遠になり、交友関係が学者中心でやはり頼りにならなかったのです」
玲奈「菅原道真が失脚してから、朝廷だと学者は偉くなれないもんなぁ」

与一「とまあ、このような情勢で、鳥羽法皇〜後白河天皇を支持する与党と、不遇をかこつ崇徳上皇に寄り添った野党が存在したわけだ。このような対立状況を解消するには、どんな方法が考えられるか言ってみるように――弁慶」
弁慶「オレか!? ええっと……陰謀を仕掛けて失脚させる!」
九羅香「確かにそーいう手もあるけど、よほど相手の地盤が弱くないと、応天門事件の伴善男みたいに逆襲されて終わりだよ?」
紅葉「それに当事者が皇族や摂関家ですから、単なる陰謀で屈服させられる規模を超えていますし……」
静「役職で釣ったり婚姻関係を結んだりして〜、仲間に取り込んでしまうのはどうでしょう〜?」
与一「それで済むのなら、ここまでの大事には達しなかったはずだ」
玲奈「相手の有力者を暗殺しちまう、ってのはどーだ?」
与一「院や摂関家の取り巻きは暗殺できるような人数ではないし、天皇や上皇を殺害など、噂だけで一族もろとも断罪されるのが関の山だろうな」
弁慶「という事は、やっぱり武力に訴えるんだな?」
九羅香「ああっ弁慶〜! もしかして最初から答が分かってるのにわざと間違えたんでしょ!」
紅葉「ひどいですわ弁慶様……このコーナーは弁慶様が歴史に弱い事を利用して構成されておりますのに……」
玲奈「貴様弁慶じゃないな! 正体を現せ!」
弁慶「話を掘り下げてもらうための発言だったのに、どうしてここまで罵倒されるんだオレはーっ!(泣)」
静「あんまり弁慶さんをいぢめないで下さいね皆さん〜。で、武力といえば、どなたがどのような武士を控えさせていたのでしょうか〜」
与一「後白河天皇は鳥羽法皇の支持者を受け継いだから、当然ながら伊勢平氏の主力、当主である清盛殿の勢力の味方を得る事ができるし、鎌倉を中心として勢力を持っていた源義朝殿も、崇徳上皇に仕えていた父の為義殿やその他多くの弟とも不仲ではあったが、下野の足利に地盤を持つ源義康殿と並び、清和源氏の二大主力として馳せ参じていた」
九羅香「え? 父上が源氏の棟梁じゃなかったの?」
与一「義康殿は義朝殿と別の所に地盤を置いて、自分も朝廷に仕えているから、家来扱いはできるまい。ちなみに配下の武士の数は、平信範殿の『兵範記』保元元年7月11日条によると、清盛朝臣は300余騎、義朝は200余騎、義康は100余騎と記されている。この人数には従者の数は勘定されておらんから、実際の兵力はもっと多くなるがな」
紅葉「(「お茶でも飲みましょ〜」入門編其之四を見て)つまり清盛様は四位、義朝様と義康様は五位でしたのね」
与一「そうだな。清盛殿は祖父以来の知遇を歴代の院や近臣達から得ていたが、義朝殿は歴代の不祥事が祟り、為義殿とは違って受領にはしてもらえたものの、5歳年上の清盛殿に年の差以上に引き離されていた」
静「そうですね〜。九羅香さんの曾祖父さんの不始末がこの頃になっても祟っていた事がよ〜っく分かります〜」
九羅香「…………一応その人物は廃嫡されて、系譜上の曾祖父は別の人なんだけど?」
弁慶「そ、それで崇徳上皇の側にはどんな連中がいたんだ?」
玲奈「えーっと、少なくとも源為義と、義朝以外の子供――つまり九羅香の叔父さん達が入るよな」
与一「ああ。その中ではやはり、狼藉を起こして父の官職を失わせた為朝殿が有名だ」
九羅香「……………………………………………………………………………………与一?」
与一「え、え〜と、もちろん義仲殿の父である義賢殿は既に殺害されていたし、近年になっても活動している義広(義憲)殿や行家(義盛)殿は参加していなかったと思われる。他にも崇徳上皇や頼長殿に仕えている武士、例えば清盛殿の叔父である忠正殿、大和源氏の宇野家などが傘下に入っていたのだ」
九羅香「大和源氏?」
与一「……清和源氏の一派だが、ほとんど九羅香殿に関係のない家系だ(母君の常盤殿が大和源氏出身という可能性は高いがな)。那須家と摂関家に比べればまだ近縁と言えるだろうが」


・保元の乱(保元元(1156))

与一「さて、やっと本題に入るわけだ。京の内裏には後白河天皇が、鴨川を挟んだ白河には崇徳上皇がおられて睨み合いをしていたが、崇徳上皇方に加わるはずだった宇野親治殿が京で潜伏中に摘発されたり他の者達も上洛に手間取ったりしている間に、清盛殿達が夜襲を掛けて呆気なく勝負が付いてしまった。鎌倉源氏の配下のほとんどが為義殿を見捨てて義朝殿に付いたのと、崇徳上皇とも関わりのあった清盛殿がその関係を振り切ったのが、勝敗を決めた決定的要因だったようだな」
玲奈「本題終わりかよっ!」
与一「本当に短時間で終わったのだから仕方あるまい。崇徳上皇方の主要人物は逃亡したが、矢傷を受け奈良で亡くなった頼長殿のような例外を除き、後で捕縛され処分を受けた。崇徳上皇が讃岐に流され、白峰の配所で果てて天狗の王と化したのは有名だろう」
紅葉「ええ、そうですわね」
静「弁慶さんと合流する前や離れ離れになっている間には〜、あちこちで天狗と戦ったものですよ〜」
九羅香「なにしろ連中は空を飛ぶからね。飛び道具の少ない隠密部隊には分の悪い相手かもしれないから、出くわさなくて幸いだったと思うよ弁慶」
弁慶「この世界には天狗も実在するのかよ……。……まあ、そんなのに神機を奪われなくてよかったかもしれないけど」
与一「そして崇徳上皇の味方の有象無象も流されたのだが、特別に武士だけは厳しい刑罰を受け、為義殿や忠正殿、そして義朝殿の弟達の大半は処刑された。為朝殿は腕の筋を切られて伊豆大島に流され、平治の乱の後頃に騒ぎを起こして伊豆本土から追討されたという。立場の危うくなった忠実殿は急いで忠通殿に荘園を譲り直すが、藤氏長者の再任命には後白河天皇に(不要なはずの)宣旨を先んじて出されてしまい、摂関家の権威はこれで地に落ちたといえよう」
紅葉「ともあれ、それまでの政変とは異なり、都での武力行使に至ったこの戦いが、武家の棟梁が京の政界でより重要となったのは間違いありませんわね」
九羅香「でも父上にとっては、一応昇進できたとはいえ清盛殿に大きく差を付けられたままで、しかも弟達を大勢処刑しなくちゃいけなかったんだよね……」
弁慶「まあまあ九羅香。どうせ不仲だったんだから、そのうち義仲の親父さん相手みたいに殺し合いになったんだし」

――しばらくお待ち下さい。


・平治の乱(平治元(1159))

静「弁慶さんは九羅香さんに切り刻まれて大怪我しましたので〜、とりあえずワタシ達だけで続けましょうか〜」
九羅香「も〜! リテラシーの欠片もないんだから弁慶ってば!」
玲奈「『デリカシー』だろ! リテラシーは読み書き能力だ!」
静「さて保元の乱の少し後に、後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に位を譲られて上皇となります〜。これによって後白河上皇派と二条天皇派が主導権を巡って争いますけど、決着は平治の乱より後になりますので今は関係ないですね〜」
与一「さて、信西殿は晴れて政権を握り、意欲的にあれこれと仕事をしていたようだが、権中納言で院別当の藤原信頼――やはり傍流で、あの御堂関白道長殿の長兄道隆殿の子孫だ――が台頭してきた。既に50を過ぎていた信西殿に比べて信頼殿は20代半ば、27歳も年が違えば、一種の世代間抗争と言える……かどうかは知らんがな。この信頼殿、上皇からは『あさましきほどの御寵愛』を受けており、驕り高ぶってか元からの性格か、『悪右衛門督』という誰かさんのような呼び方をされていた」
紅葉「ちなみに信頼様の兄として、秀衡様の正室のお父様であり、現在は平泉にお住まいの元陸奥守・基成様がおられますわ」
九羅香「何と言うか……意外と世の中って狭いんだね」
静「そして清盛さんは、信西さんと仲良くして(信頼さんとも仲が悪かったわけではないようですが)勢力を一層増していました〜。朝廷の馬を扱う責任者である左馬頭にしてもらえたとはいえ、最初から大きく差を付けられていた清盛さんに大きく差を付けられてしまったままだった義朝さんは、信西さんと対立していた信頼さんと手を組んで、清盛さんが熊野に出掛けた留守を狙って挙兵したんですね〜」
与一「信西殿は近江の信楽まで逃れたが自害して、信頼殿と義朝殿は上皇と天皇を大内裏に幽閉した。しかし清盛殿は、一旦は信頼殿に加担していた天皇の側近の藤原経宗殿(大炊御門の一族だな)や藤原惟方殿(こちらは葉室の一族だ)の手引きでお二方を救出し、自身は天皇を奉じて激戦の末に勝利したのだ」
玲奈「また早っ!」
与一「やはり今回も、長引いたとはいえ1日で戦闘が終わったのだから仕方あるまい。前回は公家は流されるだけだったが、上皇にも見捨てられた信頼殿は打ち首にされた一方、藤原家成殿の息子である成親殿は信頼殿に味方したせいで立場を危うくするが、清盛殿の娘婿だったので赦免された。義朝殿は船で関東に逃れようとしたと思われるが、尾張の知多半島にある野間で殺害された。ちなみにこの時は入浴中だったと伝えられ、慰霊堂である野間大坊では木刀を備えて願掛けをする風習が伝わる事になる」
九羅香「……わたしの甥の万寿(頼家)も入浴中に殺害されたっていうけど、もしかしてわたしの一族ってお風呂が鬼門?」
紅葉「これで……義朝様の一族はどうなりましたの?」
静「え〜、……めんどくさいので以下を参照して下さい〜」

  義朝…逃亡中に尾張で殺害、京で晒し首
  義平(母は遠江橋本の遊女か三浦家の娘)…飛騨に逃亡して清盛を狙うが、京で捕縛されて斬首
  朝長(母は波多野家の娘)…逃亡中に美濃で体が弱り自害
  頼朝(母は熱田大宮司家の娘)…逃亡中に義朝からはぐれて美濃で捕縛、伊豆へ流刑
  義門(母は熱田大宮司家の娘)…不明、逃亡前に死亡していた可能性も高い
  希義(母は熱田大宮司家の娘)…土佐へ流刑
  範頼(母は遠江池田の遊女)…不明、存在が把握されていなかった可能性あり
  乙若・今若・牛若(後の全成・義円・義経)(母は九条院(藤原呈子)雑仕の常盤)
   …母の常盤が連れて大和に逃亡していたが自首、後に常盤の再婚相手である藤原(一条)長成の後見の下で寺院預かり

静「気持ち良いほど壊滅してますね〜。もっとも他の多くの源氏は参加しなかったり義朝さんを退治する側でしたから、他人事といえば他人事ですけど〜」
九羅香「退治ってねぇ……。でも頼朝兄上とわたし達って、随分扱いが違うよね?」
与一「それはやはり、母親の身分の違いだろう。警戒すべきは最も身分の高い母君を持つ、つまりは嫡子である頼朝殿と希義殿であって、それ以外は別に構わなかったのかもしれん。嫡子がいる限り庶子は跡継ぎになる事がまずないからな。頼朝殿の場合、伊豆は関東に近くて危険ではないかという学者もいるようだが、あの辺りにも旗揚げ当時には六波羅の与党が大勢いるのでそーいう指摘は的を外しているだろう」
玲奈「確か頼朝だと、清盛の母親が助命嘆願をしたとかいう話もあったよな?」
静「池禅尼さんですか〜? あの方は厳密には母上ではありませんよ〜」
玲奈「え? ……ああ、そういえば清盛を産んだのは白河法皇に仕えてた祇園女御の妹だったっけ」
静「ハイ、つまり清盛さんも庶子だったんですよ〜。池禅尼さんには家盛さんという嫡子がいたのですけど早死にしてしまい、下の嫡子の頼盛さんが清盛さんより14歳も年下では家を継がせるのは覚束無かったですからね〜。嘆願云々はさておいて、清盛さんの立場が家の中では微妙だったのも確かです〜」
与一「実際、頼朝殿を引き取った北条時政殿の2人目の奥方である牧の方は、実は池禅尼殿の親戚にあたるのだ。この時実質的に頼盛殿預かりの身になった事が、頼盛殿の家系の存続に繋がったのだろうな。……って、ゲーム内ではまだ決着も付いておらんのだが(汗)。頼朝殿の助命がかなったのも、単純な情の問題ではなく、多数の親族や朝廷における上司筋――既に皇后に仕える身であったから――からの圧力もあったのであろう」
紅葉「そういえば、清盛様には白河法皇様の落胤だという噂もありましたわね」
九羅香「本人の生存中に流れていたという噂だから、巷に多い有象無象の落胤説よりは信憑性はあるかもしれないけどねえ……。もしかしたら観月ちゃんが高い霊力を持つっていうのも、その辺からヒントを得たのかもね」
与一「ちなみに常盤殿と再婚した藤原長成殿は、やはり院に仕える一族(後の坊門家、戦国時代に断絶)の出で、常盤殿とは近衛天皇の中宮である九条院(藤原呈子)に仕えている時に知り合った関係で再婚相手となったものらしい。この2人の間には息子と娘が生まれており、息子である藤原良成殿は後に、4歳上の兄である義経殿に従っている」
紅葉「という事は、良成様が『義経伝』にサブキャラクターとして登場なさるとしたら、13歳の可愛い男の子になるのでしょうね……(ぽっ)」
玲奈「ないだろそんな事ッ!?」


・六波羅平氏全盛期

弁慶「えーと……、今回は平治の乱の後だったよな」
玲奈「おおっ弁慶! もう回復したのか?」
九羅香「わたしが付きっ切りで看病してね。キミったらホントに口が災いの門なんだから」
与一「そう言いながら九羅香殿も、まんざらでもない様子だが」
九羅香「も、もう与一ってば!(ざしゅっ!)」
弁慶「てっ、照れ隠しに太刀を振り回すなよーっ!」
紅葉「さて、対抗勢力の義朝様が滅び去った後、唯一の武士の棟梁として清盛様の全盛時代が到来し、翌年の永暦元年(1160)には正三位参議、つまり公卿の一員となります。後白河上皇様は信西様を失って、しばらくは経宗様や惟方様のような二条天皇親政派が優位に立ちますが、同じ永暦元年にお二人は上皇様に捕縛されて流刑にされてしまいました。これにより二条天皇派は力を失い、二条天皇とお子様の六条天皇は相次いで退位され、桓武平氏(とはいっても、300年以上前に枝分かれした高棟流の方ですが)の母君を持つ憲仁親王様が高倉天皇として皇位を継承する事となったのです」
与一「なお、この辺りの関係は下の系図を参照だ」

〈六波羅平氏全盛期中心・皇室系図〉

┌後白河上皇・法皇┬二条天皇・上皇─六条天皇・上皇/順仁
└八条宮       ├以仁王─北陸宮
            └高倉天皇・上皇/憲仁┬安徳天皇/言仁
                           ├守貞親王(後高倉院)
                           └後鳥羽天皇/尊成

玲奈「えーっと、高倉天皇は清盛の義理の甥になるんだよな?」
静「その通りですね〜。これで清盛さんと上皇様の関係はさらに強まり、仁安2年(1167)には清盛さんは従一位太政大臣、他にも一族の主立った方々からも公卿が出ています〜。しかしやがて、政権を担い続けようとする上皇(法皇)様と、さらに勢力を増そうとする清盛さんの対立が激しくなりますが……ここで少々気分転換をして、六波羅平氏の権力基盤を考察する事にしましょう〜」
弁慶「だーかーら、それで気分転換できるのはここの著者のよーな変人だけだって……」

与一「まず言える事は、六波羅平氏の政権――略して平氏政権に対する研究上の見方は、(1)鎌倉幕府との制度上の連続性を重視する、(2)平氏政権と鎌倉幕府の構造上の相違点に着目する、というものが基本のようだ。“近代史”の最初で言っていたように、院政を中世に含めるようになってから、平氏を武家権門として見る事が普通になったようだな」
紅葉「それでも一般の方々には、『貴族化した軟弱な平家を勇猛な源氏が倒した』という、関東人の京都への偏見を含む不正確な認識が抜けていないようですわね。こうした偏見を持っていないという点では、弁慶様の知識が少なかったのも悪い事ばかりではありませんでしたわ」
玲奈「褒めるのか貶すのかどっちかにしろよ紅葉……」
九羅香「鎌倉幕府の事はさておき、平氏政権にも御家人みたいなのはいたの?」
与一「平氏政権の譜代の家臣……江戸時代風に言えば旗本だが、その中心は同族である伊勢平氏だった。清盛殿の家臣として名高い平家貞殿や、頼朝殿が旗揚げの際に倒した平兼隆殿がその一例だな。他には伊勢の伊藤家も、伊勢守景綱殿や、その孫で『悪七兵衛』と呼ばれた景清殿などが有名だ」
弁慶「え? 兼隆って平じゃなくて山木じゃなかったか?」
玲奈「元々兼隆は、都で面倒事をやらかして伊豆に流されていたのを、それまでの目代が源頼政の関係者だったからいきなり役人に昇格させた奴だったんだぞ。山木ってのは伊豆の国衙の近くの土地だから、いくら屋敷があっても名字として扱うのはちょっと気が早過ぎると思うぜ」
与一「もちろん傘下には一族以外の武士も多く、畿内や西国の武士だけでなく、頼朝殿の旗揚げ前には相当な数の東国武士も平氏政権の傘下に入っておった(……その際に排斥された有力家門の多くが、旗挙げ後速やかに頼朝殿に鞍替えしたがな)。『権門』の条件である政務機関や独自法度についてはあまり知られておらんようだが、清盛殿は公卿になった時点で政所を構えておっただろうし、侍所などの他の役職も備えておったに相違ない。もちろん独自の都市としては、白河の一角の六波羅に一門や郎等の住まいを構えていた」
九羅香「後には鎌倉に没収されて、鎌倉幕府の京都守護、もっと後には六波羅探題が駐在する、いわば鎌倉幕府京都出張所になるんだけどね」
玲奈「んじゃ、経済的な裏付けはどーだったんだ?」
静「所領としては〜、知行国と荘園にあったと言われていますね〜。知行国では国衙や在庁官人を支配できますし〜、荘園は主に院領の領家職・預所職を保有していたようです〜」
与一「この辺は鎌倉幕府も踏襲しているな。鎌倉幕府は謀反や犯罪による没収地の荘官の代わりとして地頭を送り込んでいるが、平氏政権の『地頭』はまだ地域的・私的な存在であったようだ。また西国の海賊(海を行動範囲とする武士)を従えた事にもより、宋との貿易も盛んに行っていた」
玲奈「摂津の福原……未来の神戸の辺りに別邸を作って、そこに『隠居』しながら、近くの大輪田泊(後の兵庫津)に経島を造ったりしてたんだよな」
静「音戸の瀬戸も清盛さんが開削させたと伝わっており、未来には扇子を掲げて太陽を呼び戻す清盛さんの像があります〜。はたして超過労働の手当ては出たのでしょうか〜?」
紅葉「楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝一として闕たる事なし……」
弁慶「……なあ紅葉、それって電波か?」
九羅香「……『平家物語』の冒頭に出てくる、宋との貿易による将来品の羅列だよ。そもそも電波って何なのさ」


・…の裏側で

与一「……弁慶の訳の分からん言い草はさておき、この頃の頼朝殿などについて話してみよう」
静「え〜、まず頼朝さんは池禅尼さんの縁者である北条家に預けられ、伊豆の国府に程近い蛭ヶ小島と呼ばれる所にいました。流刑とはいえ縁者の皆さんからの援助もあり、まあそれなりに過ごしていたようです〜」
玲奈「具体的には?」
静「文学作品によると、伊豆や相模の武士の皆さんと狩りに出たり、義朝さん達の供養をしたり、伊東家の娘さんを孕ませて大騒ぎになったり、北条政子さんとらぶらぶになったりしたそーですが、具体的な事はあまり分かっておりません〜」
玲奈「ヲイ」
九羅香「で、わたしは?」
静「義理の父の藤原長成さんにより鞍馬寺に預けられ〜、どういうルートでか平泉に至ったのは確かです〜。金と馬を輸送する院や摂関家の厩舎人を頼ったとか、長成さんの親族の伝手を辿ったとか、様々な説が出ていますけど〜、真実は定かでなく、文学作品では頼朝さんを遥かに越える脚色を受けてしまっています〜。鞍馬で天狗に武術を学んだり、五条大橋で武蔵坊弁慶さんを倒したり、鬼一法眼の娘さんをたぶらかして兵法書を手に入れたり、三河の矢作の浄瑠璃姫と儚い恋の物語を演じたりする話はありますけど〜、あくまでも物語世界での話ですからね〜」
紅葉「たぶらかすって……某コールソン氏みたいですわね」
九羅香「だーかーら、あくまでもフィクションだってばぁ……。わたしの通常攻撃『鞍馬剣法』は、この辺の伝説から来ているんだろうけど」
弁慶「じゃあ、本来の弁慶さんと対決したのもフィクションなのか?」
九羅香「……そーみたい。しかも古い作品だと五条大橋じゃなくて五条天神になってるし。一応弁慶は史実にも登場するから、金売り吉次とか常陸坊海尊とかよりはマシだけど」
与一「まあそういう事で、義経殿は平泉に来たというわけだ。当時の平泉には、京に居づらくなった、あるいは流された公家や官人や僧侶が大勢居着いており、この点で平泉は後の鎌倉を先取りしていたとも言えるだろう。なお、他の源氏や坂東の平氏、あるいは私や紅葉を含む藤原氏やその他の一門の面々については、いちいち挙げているときりがないので省かせてもらう」
紅葉「与一様共々、源平の合戦より前は大したエピソードもありませんものね……」


・平氏専制と反六波羅勢力

与一「では、この辺で話を戻そう」
九羅香「おっけー。後白河法皇様と清盛殿の対立についてだよね」
静「そうですね〜。新たに即位された高倉天皇にとって、法皇様は父、清盛さんは母方の義理の伯父。どちらも尊属にあたりますので、以前のように明白な上下のあった頃とは違い、次第に対立が深まっていました〜。どちらも強引な性格であられたよーですので、近親憎悪なのかもしれませんね〜」
九羅香「摂関家は?」
紅葉「……九羅香様、あれほど京下りの方々から話を伺っておいたのにお忘れですの?」
九羅香「う……。だって父上の仇を取るための武術の鍛錬や軍学の勉強で忙しくてつい……」
弁慶「そこまで軍事馬鹿かよ九羅香……」
与一「忠通殿の後は、その子である(近衛)基実殿が関白と摂政をしておられたのだが、六条天皇の在位中に亡くなられた後は息子の(近衛)基通殿、上の弟の関白(松殿)基房殿、下の弟の(九条)兼実殿に分かれて、源平の合戦後まで相争う事になる。概ね近衛家(という名称は固定していないが)は基実殿が清盛殿の娘と婚姻していたから最初は六波羅と、松殿家は法皇や義仲殿と、九条家は後に鎌倉と関係を持つ事になる」
静「後に松殿家は衰えてしまいますけど〜、近衛家と九条家は後世に子孫を残し、五摂家と呼ばれるようになります〜」
玲奈「松坂屋、名古屋鉄道、中部電力、東邦ガス、東海銀行だよな」
他全員「…………??」

※これは名古屋財界の「五摂家」です(「愛知県財界」ではないので、西三河のトヨタ自動車は入りません)。本来の五摂家は近衛・鷹司・九条・二条・一条。

玲奈「……いや、別にいーから続けてくれよ(涙)」
静「はい〜。そーいうワケで、まず治承元年(1177)に、院の近臣の一部が清盛追討計画を立てていると、院に仕えていました源(多田)行綱さんから通報がありました〜」
九羅香「その行綱殿だけど、何で源氏なのに平氏追討を清盛殿に通報しちゃうのさ!?」
静「行綱さんは摂津源氏の本家なので、200年前に枝分かれした鎌倉源氏が全滅しようと知った事ではないのです〜。後醍醐天皇の倒幕計画を通報した吉田定房さんと似たように、法皇様に累が及ばないようにしたのかもしれませんね〜」
紅葉「九羅香様だって、清盛様の遠い血縁だからといって千葉家や三浦家を滅ぼしたいとは思われないでしょう? それと同じ事ですわ」
九羅香「それは分かってるけど……分かってるけどさぁ……」
与一「これで首謀者の藤原成親殿は備前に流されて処刑、その義理の弟(正確には家成の猶子)の西光(藤原師光)殿も処刑、法勝寺の俊寛殿は喜界島(未来の薩摩硫黄島という説が有力らしい)に流されたのだ」
弁慶「成親って……清盛の娘婿だったよな」
与一「よく覚えていたな弁慶。代々院の近臣で、しかも六波羅平氏と姻戚関係まで結んでいた人物がここまで思い詰めるようでは、清盛殿と法皇様の関係悪化は見え見えだろう」
紅葉「……ですわね。その後お二人はどうなさいましたの?」
与一「法皇様は治承3年(1179)に入ると、六波羅関係者の荘園や知行国を奪い、清盛殿の義理の孫である基通殿を露骨に冷遇した。その結果清盛殿は福原から兵を率いて上洛、関白殿の係累や院の近臣(清盛殿の弟の頼盛殿も含む)を大量処分してしまい、法皇様も鳥羽の屋敷に幽閉されてしまう。……後先考えずにやりたい放題した法皇様にはいい薬になられたかもしれんがな」
静「え〜、そして治承4年(1180)の2月に高倉上皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位され、名目上は高倉上皇が院政を敷かれますが、清盛さんは外祖父として思うがままに政治を動かすよーになります〜。この辺は昔の摂関家に倣っているのでしょうね〜」
紅葉「このような所が平家=貴族的という誤解に通じているのでしょうけど、頼朝様も江戸幕府の徳川秀忠様も娘を皇室に縁付けようとなされた事では共通してますわ。どちらも最終的には失敗されたせいか、清盛様ほど知られてはいないようですけど」
玲奈「影の薄い気の毒な上皇だよなぁ。翌年の養和元年(1181)には死んじまってるから、あたし達のいる『現在』にはもーいないし」
静「高倉上皇は法皇様の幽閉を何とかしてもらおうと思ったのでしょうか、上皇として初めての社参に安芸の厳島神社を選びますが、選ばれなかった京周辺の神社に縁の深い有力寺院全ての敵愾心を煽る事になってしまいます〜。そして続きはまた次回という事で〜」
九羅香「今度こそわたしにも分かる話だといーなぁ。近頃は弁慶と同じ位置に転落しつつあるし」
弁慶「どーいう意味だよそれっっ!?」


・頼朝(その他大勢)挙兵(治承4(1180)〜)

静「さてさて〜、ここに平氏政権に不満を抱き、打倒するのが妥当だと心に秘める皇族がお一方おられました〜」
紅葉「……ダジャレはさておき、そのお方は以仁王様ですわよね。しかし何故、親王宣下を受けず、しかも出家もされずに今までおられたのでしょう?」
与一「良い質問だ紅葉。以仁王は恐らく、高倉天皇の御生誕以前には、二条天皇が不意に崩去された場合の予備として、あえて出家させずに留めておかれたのだろう。しかし以仁王は母君の身分がさほど高くなく、しかも高倉天皇が生誕されたために、平氏政権の下では冷遇されて親王宣下を受けられなかったと推測されている。それでも出家なさらずにおられたという事は、よほど政治的野心が強かったのであろうな」
九羅香「先回りして説明しておくけど、弁慶の時代は自動的に天皇の子・孫が親王・内親王、曾孫より先になられると王・女王だよね? 奈良時代とか平安の初め頃でも大体同じ(親王・内親王はお子様だけ)だったんだけど、今頃になるとわざわざ『親王宣下』を受けないと親王になれなくなったんだ。逆に言うと孫や曾孫でも親王宣下を受ければ親王扱いだから、もうちょっと後の時代の宮家(伏見宮とか閑院宮とかだね)の御当主方はみんな親王だったんだよ」
弁慶「…………ま、まあ以仁王が平氏政権に不満だったのは分かった。それで確か、歌詠みの源頼政と手を組んで挙兵したんだっけ?」
与一「……従三位散位、摂津源氏の頼政殿が歌詠みだったのは確かだが、手を組んだのは平氏政権の主流から外れて、しかも自前の武力を持っていたからだろう。それに治承4年(1180)4月に平氏追討の令旨を出したのが5月に発覚して、即座に滅ぼされてしまったのだから、挙兵というのも厳密には正しくない」
景時「しかもこの以仁王令旨は、法的に問題のある代物だったのだ。親王ではないのに『最勝親王』を名乗ったり、安徳天皇の即位を否定して自分が即位する気満々のような文言が見られたりしたので、鎌倉殿は後にこの令旨を放棄され、法皇様は後々まで以仁王の処罰を解いておられん。義仲は山猿だからその辺の機微を解せず、くたばるまで後生大事に令旨を抱えておったようだがな。はっはっは」

ずど。

景時「ぐはっ!」
巴「何ぬかしてんだかこの勘違い耽美系親父は……流血を掃除させられるのも嫌だから石突で勘弁してやったけど」
静「あらまあ、いらっしゃいませ巴さん〜。そこで呻いてらっしゃる景時さんも〜」
九羅香「相変わらず過激だなぁ巴殿……。それに景時殿、そのふりふりは敦盛殿の次くらいにセンス無いからやめた方がいいって、この前会った息子さんからも言われたよ?」
弁慶「息子っ!?」
九羅香「……その言い方、まるで景時殿が木の股から生まれたよーな言い方で失礼だなぁ」
紅葉「梶原景季、通称源太様ですわ。教養も豊かで、しかも景時様のように嫌われてもおらず、涼しげな武者姿は京の女子の憧れですわ……」
景時「源太〜〜〜〜っ!! そんなにパパが嫌いか〜〜〜〜っ!!(涙)」
与一「倒れたまま泣いている耽美系中年はさておいて、以仁王が討ち死にしても、令旨は既に九羅香殿の叔父であり、八条院(法皇の妹君の八条宮)の蔵人として地位保証を得ていた源(新宮)義盛――改名して行家――殿などの手により全国に配布済みだった。4月末には伊豆の頼朝殿に届いたというのだから、結構な速さと言えるだろう」
景時「さて、この頃の鎌倉殿は、流人とはいえ家臣も従え、人脈を通して京の情報も常に入手していたようだ。鎌倉殿は嫡子として大勢の乳母に取り囲まれていたが、この当時に最も援助をしていたのは、武蔵の比企家の後家となっていた比企尼だ」
与一「ここでも乳母人脈が働いているな。ちなみに比企能員殿は尼の甥、安達盛長殿は娘婿で、やはり当時から頼朝殿に仕えておった」
景時「他に有力なのは、京下りの官人である大江広元殿、その弟の中原親能殿、鎌倉殿の乳母の1人の甥である三善康信殿だ。この3人は事ある毎に、一族が大勢いる京から情報を流していたと聞いた事がある。無学な関東武士とは違って、私がまともに話を交わせる数少ない人々だな」
玲奈「景時……アンタの嫌われる理由がよぉぉぉっく分かったような気がするぞ……」
巴「だけど頼朝って、随分頭のよさそうな連中を抱えていたのね。アタシ達にはそんな人材はほとんどいなかったし、返す返すも不公平だわ」
静「さて頼朝さんは〜、京で平氏が『くーでたー』を起こして法皇様が幽閉されたのも、平氏政権に対して権門各位が隔意を抱いているのも、十分ご存知だったと思われます〜」
弁慶「ダジャレ絶好調だな静さん……」
静「そこに令旨が来て喜んだか迷惑に思ったかはともあれ、そのままでは身の破滅を呼ぶのも明らかだったでしょう〜。特に目代が六波羅平氏の譜代の家臣である平(山木)兼隆さんに変わった以上、速やかに挙兵して目代を討たなくてはならないわけですね〜」
景時「実際この後に、土佐に流されていた鎌倉殿の同腹の弟である希義殿は討ち死にしている。後に鎌倉殿は土佐の土を取り寄せて供養墓を作っているが、傍迷惑な義経などではなくこちらが生きておられれば、いかに鎌倉殿は喜ばれた事か」
弁慶「出っ歯の小男ならともかくこちらだと可愛い女の子だし、ちゃんと頼朝の意図も理解できる辺り史実より頭もいいんだけどなぁ……」
九羅香「そこで頼朝兄上は、奥方を貰っていた北条家などを率いて8月に挙兵して、三島にある伊豆国衙の兼隆殿を討ち取ったんだ。でもその後で味方を求めて相模に出ようとしたところで、石橋山で平氏方の大庭家や波多野家などの軍勢に敗れて、三浦家の水軍で安房に逃げたんだよね。その戦に参加した誰かさんがここにはいるけど(景時を凝視)」
景時「確かにあの時私は平氏の軍勢に加わっていたが、あれは一族の大庭景親に率いられていただけだ」
九羅香「その大庭家だって、元々父上に仕えていたじゃないか!」
景時「領有していた荘園を、国衙に仕える三浦家や中村家と手を組んだお貴族様に巻き上げられて、無理やり服従させられたのを“仕える”と呼べるならな?」
紅葉「そのお気持ちは良く分かりますわ景時様。わたくしの仕える奥州藤原氏にとっても、九羅香様を除く源氏は全て忌まわしい(検閲により削除)ですもの」
九羅香「紅葉……こんなエロ中年と意気投合しなくても……(号泣)」
与一「さて、8月末に安房に辿り着いた頼朝殿だが、周辺諸国の在庁官人や荘官を味方に付け、10月には相模の鎌倉に入った。この鎌倉は万葉集にも名前が見えるという場所で、元は鎌倉郡の郡衙の所在地、そして160年ほど前に譲られてから頼朝殿の先祖が代々拠点としていた由緒ある場所でもあるのだ。しばしばただの田舎の村だったように記されるのは、400年後(弁慶から見ると400年前)の江戸についても言えるように、幕府による土地開発を過大視するための、言うならばハッタリに過ぎんだろう」
静「葦原の中つ国を豊葦原の瑞穂の国と化さしめた天孫降臨の伝承が、これらの原型となっているという考えもあるでしょうね〜」
景時「さて、この時鎌倉殿に従って、後に平氏政権を打倒する主力となったのは、三浦、上総、千葉、畠山、江戸など、その大半が関東の平氏であった。ちなみに私や史実で範頼殿の軍監だった土肥実平殿も平氏だったから、その意味では源平の合戦は平平の合戦だったと言えるだろうな」
弁慶「へーへー」
玲奈「受けないからやめとけ。……で、源氏はやっぱり敵に回ったのか?」
九羅香「『やっぱり』ってどーいう意味!? ……まあ確かに佐竹家や志田義広殿とは戦いになったし、新田義重殿は自分の勢力拡張にこだわって分家の山名家や里見家より兄上に従うのが遅れたけど、足利義兼殿は母君の実家が兄上の母君と同じ熱田大宮司家だし、平氏政権の味方だった藤姓足利家と敵対していたから、真っ先に鎌倉方に付いたんだよ!」
与一「……という意味では、源平の合戦は源源の合戦だったとも言える。そして頼朝殿は、別個に旗揚げしていた甲斐源氏と北条時政殿の活動により同盟を結び、清盛殿の嫡孫の維盛殿が率いる平氏政権の討伐軍を、駿河の富士川で共に追い返したのだ」
九羅香「この戦の後、わたしは駿河の黄瀬川で生まれて初めて頼朝兄上と会ったんだよね……。あの時ほど普段男装しているのが悔しかった事はないなぁ(ぽっ)」
巴「……ブラコンなのはいーけど、昔と違って異母兄妹が結婚するのは犯罪だからね九羅香?」
九羅香「しないよっ! ……わたしが女だって確認させようとしたら、政子殿が『私が確認します』って怖い目で見るんだもん(汗)」
静「でも驚いたでしょうね頼朝さんは〜。生き別れどころか顔も合わせた事も無かったような親戚がいきなり現れたんですから〜」
与一「同じ母君から生まれた兄の全成殿も、この頃頼朝殿を頼って京から鎌倉に来ているはずだが……。それはさておき頼朝殿は京に攻め上るのを抑えられ、東国の体制を安定させる一方、大義名分を手に入れるために法皇様と密かに交渉していたらしい。治承5年/養和元年(1181)、養和2年/寿永元年(1182)と、2年続けて京から西の各地が飢饉に見舞われたせいか、平氏政権にも関東まで攻め込む余力はなかったようだ。……もっとも治承5年3月の尾張・美濃国境(当時)の墨俣の戦いでは平氏の軍に行家殿が敗れ、全成殿の弟、つまり史実の『義経』の兄の義円殿が討ち死にしている」
紅葉「史実ではこの間に、『義経』様は鶴岡八幡宮に納める馬を引かされて腹を立てられたり、更なる平氏政権の軍を迎え撃つ予定が延引になったりしておられましたが、ゲーム内の九羅香様が何をしていたかは不明です」
弁慶「つまり、妄想も自由って事か?」

――しばらくお待ち下さい。

玲奈「弁慶……安らかに成仏しろよ……」
九羅香「はあはあ……。ところでこの頃巴殿はどーしてたの?」
巴「ぜえぜえ……。義仲様はアンタの一番上の兄貴に父親を殺された後、乳母をしていたアタシの親――中原兼遠夫婦に、信濃の木曽谷にかくまわれていたのよ。おかげで京生まれ京育ちのアンタや頼朝とは違って、すっかり木曽訛りになっちゃったけどね」
弁慶「や……やっぱり教育環境は大切なんだよな……(ぴくぴく)」
巴「そして義仲様も令旨を受けて挙兵して、最初は親の義賢様の本拠があった上野国に進出しようとしたんだけど、頼朝の勢力が強くて信濃源氏も頼朝に付いちゃったから、苦汁を飲んで北陸道に転戦、息子の(清水)義高を人質に出されたのよ。頼朝の娘の大姫と縁組する事にはなったけど、関係悪くなってから義高は殺されちゃったしね……」
与一「そして義仲殿は越後の城長茂を破り、挙兵から3年後の寿永2年(1183)5月の越中倶利伽羅峠の戦いで平氏政権の軍勢に勝利、7月には京に入っている。しかし義仲殿はこの頃既に、頼朝殿と対立していた義広殿や行家殿を受け入れたために、鎌倉との関係は決裂していたのだ」
紅葉「このもう少し前の頃が、ゲーム内の序章に相当する時期ですわね」
静「ええ〜。ちなみにこの時期には頼朝さんや義仲さんや甲斐源氏の他にも、令旨を受けて蜂起した様々な勢力がありましたね〜」
与一「うむ。『義経』と紛らわしい源(山本)義経殿が率いて、敗れた後には頼朝殿の所に亡命していた佐々木定綱・高綱兄弟と結んだ近江源氏がその中でも有名だな。しかし奥州藤原氏の3代目当主、平泉の秀衡殿は、平氏政権に味方して鎌倉を攻めるでもなく、頼朝殿や義仲殿に援軍を送るでもなく、ただ『義経』に軍勢とも言えない僅かな供を付けて送るだけの、極めて消極的な姿勢を取っていたのだ」
玲奈「思い切って『義経』に大軍を付けて送り込んでいれば、鎌倉の情勢もかなり変化していたのにな」
九羅香「とゆーかそれをやり過ぎると、平氏政権を打倒する前に鎌倉と平泉が戦になっちゃうし……(汗)」


・義仲軍入京、そして退場(寿永2(1183)〜)

与一「さて、義仲軍が京に入ったわけだが、その時既に六波羅平氏の一族は、生前の清盛殿との関係が冷却化していた頼盛殿の一族を除き、その3日前に都落ちしていた。頼朝殿や義仲殿の挙兵から平氏政権も手をこまぬいていたわけでなく、各地で呼応した反乱を鎮めたり、一時的に福原(未来の神戸)に遷都したり、関係の悪化していた興福寺の門閥都市であった奈良を焼き討ちしたりしていたわけだが、既に治承5年(1181)閏2月に清盛殿も齢64(数え年)で亡くなり、残された宗盛殿(従一位内大臣)には対処しきれなかったようだな」
弁慶「宗盛? 平家の指揮官は知盛じゃなかったのか?」
一同「待てーっ!」
九羅香「確かに知盛殿はゲーム内でも登場回数多くて(というか他の平家の武将が、維盛殿も重衡殿も忠度殿も出番ないし)、実際にも以仁王や頼政殿や行家殿を破っているからって、そーいう認識はあんまりでしょ!」
静「え〜〜、宗盛さんは知盛さんのお兄さんですが、特に武人としての見せ場もなく、華々しく討ち死にしたわけでもないので、可哀想に後世ではとことん人気のない方です〜。特に歌舞伎なんかでは、子孫が断絶していて大名から苦情が付かないのをいい事に、もー名誉毀損モノですね〜」
景時「ひどい扱いを文学作品で受けた同士、何となく共感するものを感じるかもしれんな……」
紅葉「あの……法皇様や貴族の方々はどうなさいましたの?」
与一「安徳天皇は共に都落ちされたが、法皇様やその他のお偉方は、姻戚である平時忠殿を除いて、落ち目の平氏など気にも掛けずに(いや、内心苦悩していた方もあられるかもしれんが)京に留まった。史実ではこの時神器と守貞親王(後の後高倉法皇)は平氏に持ち去られ、尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させる際にはあれこれと苦労したそうだ。もちろん、神器が無くても京にいた方が最終的に継承者となったのは1世紀半ほど後の南朝や北朝と同様だが、どうやら神器は都を離れると所持者に呪いを掛けるらしい……というのは冗談だ」
玲奈「『京が恋しいよー。敵に回収されて戻りたいから早く負けちまえー』ってわけか?」
巴「まあともあれ、義仲様の軍勢は京に入ったんだけど、ケチの付き始めが皇位継承者の選定だったわけよ。以仁王様の令旨で各国の武士が挙兵したんだから、その遺児であって義仲様が担ぎ上げている北陸宮様が皇位に就くのが筋ってもんじゃない? ……と思っていたんだけど、耽美系中年の補足によると以仁王様はまだ国家反逆罪指定が解除されていなかったから、どだい無理言ってただけなのかもねー(嘆息)」
九羅香「しかもこの頃兄上は法皇様との交渉に成功して、東海道と東山道の荘園を保護する代わりに、沙汰――ええと……公務を執行する権限を授けられる事に成功、しかも平治の乱で取り上げられた官職を返してもらったんだ。逆に言うと義仲殿は、これで東海道や東山道から公式に締め出されたわけなんだけど」
景時「ほう? 史実の義経とは違って、女の分際でよくこの権限の重要さが分かったものだな」
静「そういう景時さんも〜、男の分際でよくこのコーナーの出番が貰えたものだと思います〜」
景時「はっはっはっはっは」
静「ふっふっふっふっふ〜」
玲奈「あの2人は置いといて……京にいた義仲は、話によると散々バカな事をしでかしていたらしいな?」
巴「ま、まあ……義仲様にとって初めての都だから、少々やんちゃが過ぎたかもしれないけど……」
与一「激しい木曽訛りで所構わず話していたとか、猫間殿という貴族の訪問を猫と混同していたとか、皇族の牛車に鉢合わせした時に『内』という尊称を女房と勘違いして『道を遮るなら射殺しろ』と口走ったとか、かなり嘘っぽい話も文学作品にはあるが、この場合問題だったのは、義仲殿が戦の天才であっても政治家ではなく、側近にも京に馴染んだ官人などがほとんど存在しなかった事だろう。おかげで軍は統制に欠け、朝廷との交渉も円滑さを欠いていたと思しき事は否めん」
弁慶「そーいえば頼朝は京生まれの京育ちで、側近にも京の出身者が多かったよな」
紅葉「それでも義仲様が平氏に勝てば問題はないのでしょうけど、あいにく備中まで出動した軍が敗れてしまい、元から低かった支持をますます低くしてしまわれたのです」
巴「ちょっとー! その言い方は何ー!?」
紅葉「その結果義仲様は法皇様を襲って気に食わない貴族を辞めさせたり、長年廃絶していた征夷大将軍に就任したり――と主に伝えられてきましたが実際は『征東大将軍』で、後に頼朝様は凶例として避けられた――と、品のよろしくない言い方では悪足掻きを続けておられたのですが、年の明けた寿永3年(1184)1月には法皇様にも貴族にも寺社にも見捨てられ、源範頼・義経率いる鎌倉の軍勢に宇治川で敗れて、逃亡中に近江で討ち取られました。……この辺の詳細は、ゲーム内とは異なりますよね九羅香様?」
九羅香「えーっと、まず義経が隠密部隊の指揮官じゃなくて、範頼殿と同格の司令官だったでしょ? 義経だけは先発して、都の近辺の国で活動をしていたそうだから、この辺は何だか隠密っぽいけど」
玲奈「もちろん具体的な顔触れはゲームとは違って、耽美中年は範頼の軍監じゃなくて義経の軍監だもんな。ちなみにゲームで出番を奪われた可哀想な範頼の軍監は、土肥実平っていう相模の武士だ」
巴「それと義仲様が討ち取られる所よ。全然顔も見せずに、アタシが弁慶と戦っているうちに紅葉が倒しちゃったじゃないの!」
九羅香「そ……それはまぁ、『少女義経伝』は女の子が売りのゲームだし……」
弁慶「つまり巴御前は売りではないと」

――しばらくお待ち下さい。

与一「…………ちなみに北陸宮殿だが、この後も京で長生きして天寿を全うしている。本名すら残されないほど肩身の狭いお方だったが、それだけは唯一の救いだろうか(汗)」


・頼朝軍入京(寿永3/元暦元(1184)〜)

紅葉「……さて義仲様が討ち死にされ、範頼様と義経様が鎌倉の軍勢を率いて京に入りました。特に義経様は京の生まれという事もあり、気品では六波羅平氏で一番気品のない者にも劣ると酷な評価もされましたが(笑)、軍の統制も取れていたために、法皇様から民衆までに歓迎されたそうです」
与一「……まあ、背も低く出っ歯では風采が上がらずとも仕方あるまい」
九羅香「そんな無理して残虐シーンに現実逃避しなくても……。ところで静、さっき弁慶に制裁していた巴殿はどーしたの?」
静「温泉巡りをしたいと言われまして、もう九州に旅立ちました〜。今回は代わりに、知盛さんに来てもらっています〜」
知盛「うむ。備中の水島で義仲軍を破った我々六波羅平氏は、共に都落ちした安徳天皇を頂いて、摂津の西端の一ノ谷から京奪還を窺っていたわけだが、和平交渉も検討していた矢先に、2月には鎌倉の軍勢に破れて撤退せざるを得なかった。この時に多くの一族を戦死や捕獲で失ったのは、返す返すも痛恨の出来事だったな」
紅葉「この時に義経様は、一ノ谷の背後から少数の部隊で襲撃を行い、勝利の糸口を作ったのですわ。『鹿が下りられるなら馬も〜』というのはこの時の故事として伝わっていますけれど、実際は馬が辛うじて歩けるような峠道を伝ってきたのでしょうね」
静「その上に文学作品では〜、道が暗いからとか理由を付けて行く先の民家に放火を働いています〜。はたしてこんな人が物語の主人公として親しまれてもよいのでしょうか〜?」
紅葉「どうせ中世の文学作品では、武士は日陰者扱いですものね……」
与一「しかし少数の部隊で奇襲を行うなど、厳しく言うならば総大将(の1人)としての自覚に欠けている。歴史上の景時殿は、誰にも真似できないほど詳細な合戦報告を送るほどまめな性格だったようだから、ゲーム内の景時殿の幾倍も苦労された事だろう」
景時「わ……私だって、本当は軍監らしい働きをしたいのに、シナリオを作った連中がいぢめ役としてしか扱ってくれないから……。せめて仇役にするなら、壇ノ浦以降も扱ってほしかったのに……」
玲奈「だーっ! 泣くなおっさん、鬱陶しい!」
知盛「この時に敦盛も死んでいるのだが、前知識があってプレイした人にとっては違和感大爆発だったろうな。もちろん史実や物語では、妖魔になって復活するような事はない」
九羅香「あどけなさを残した美少年のはずが、サイコ系と耽美を煮詰めたような変質者なんだもんねぇ」
知盛「……いくら本当とはいえ、それは少々ひどいぞ義経……」
静「歴史上で敦盛さんを倒したと伝えられるのは熊谷直実さんですから、この方もゲーム内では出番を奪われた被害者でしょうね〜。ちなみに直実さんが後に出家するのはそれとは別に関係なく、親戚との土地の境界争いに負けて、プッツン切れてそのまま出家したそうですから、この場合問題ありません〜」
与一「かなり脱線してしまったが、ともあれ鎌倉の軍勢は京に戻り、範頼殿などは一旦鎌倉に帰っている。この時史実の義経殿や景時殿は京に残り、畿内の治安を安定させるために活動していたようだ。これは後の六波羅探題の権限の始まりとして評価できるであろうが、検非違使判官――厳密には左衛門少尉兼検非違使になって頼朝殿の怒りを買い、その上に院の昇殿まで許されてしまうのもこの期間の出来事だ」
九羅香「この辺は大体、ゲームの中と一緒だよね(難民のために物資開放をしたという話は聞かないし、神機なんか影も形も存在しないけど)。たとえ兄弟でも腹違いだし、『鎌倉殿』以外に対等意識を持たれると武士の統率が滅茶苦茶になるだろうって事を理解できたらよかったのにね。……理解できても法皇様に無理強いされたら断れないだろうけど」
紅葉「ところで、この頃範頼様はどうしておられたのでしょう?」
与一「範頼殿と土肥殿は、鎌倉からまた京に戻り、山陽道方面で平氏追討を続けていた。しかし年末には本州最西端の長門まで至りながら、範頼殿の軍勢は平氏の主力を倒す事もできず苦しんでいたのだ」
静「え〜、詳しい解説をお願いします知盛さん〜」
知盛「うむ。範頼殿が山陽道の陸路を制覇しても、瀬戸内海は我々の息の掛かった四国や九州の水軍が掌握していたのだ。源氏にも伊豆や相模の水軍があるにはあったが、さすがにこんな遠方にまで回す余裕はなかったようだな?」
静「こーいう事により、頼朝さんは義経さん・景時さんぐるーぷの軍を援軍として出動させ、瀬戸内海と四国を掌握させる事にしたのです〜。それは元暦2年(1185)の正月の事でしたが、平氏の側ではまだ寿永4年でした〜」
玲奈「それって何でだ? ……なんて弁慶の真似をしてみても、何だかわざとらしくて馬鹿みたいだよな」
九羅香「反乱を起こした陣営だと、政権を握っている勢力が主導して改元した年号の効力を認めずに、前の年号をそのまま使い続ける事があるんだよね。実際わたし達鎌倉陣営でも、兄上の官位が元に戻る寿永2年の途中まで、『治承7年』を称したまんまだったもの」
知盛「他に著名な例としては、建武3年(1336)に後醍醐天皇の朝廷が『延元』に改元しても光厳上皇を仰いで反乱を起こしていた武家方は『建武』のままだったり、享徳の乱(享徳3〜文明10(1454〜78))の終結まで関東公方が(本来は4年までの)『享徳』を27年まで使い続けたりという例があるな。つまり、『今の政権の正統性は認めないが朝廷そのものに対する反逆ではない』という意思表現でもあるだろう」
静「主に室町時代に地方的・単発的に用いる私年号や、遠隔地で改元令を知らずに使い続けた古い年号とかは、これとはまた別のものですからね〜」
紅葉「……著者の方の癖とはいえ、脱線が多いですわねこのコーナー」
与一「そして2月になり、義経殿は法皇の近臣の藤原(高階)泰経殿の制止を振り切り、少数の者のみを引き連れて、船で阿波まで強引に向かい、在地の武士の味方を引き連れて、平氏の前方拠点である讃岐の屋島を陥落させてしまったのだ」
紅葉「ちなみに史実の佐藤継信は、教経様の矢から義経様を庇い、屋島で戦死したと伝えられております。……もっとも教経様の果てた場所は、一ノ谷とも壇ノ浦とも言われておりますけど」
玲奈「あれ? 歴史上の景時は?」
景時「屋島が陥落した後に、追い掛けるようにしてやっと辿り着いている。この行動を見る限り、一ノ谷から丸1年が経っているのに、義経殿は自分が鎌倉の軍勢を率いる大将の1人だという事実をまだ理解しておらんかったようだな。歴史上の私の胃には、きっと穴の1つや2つは開いたであろう」
九羅香「……歴史上の義経って、普通に出陣していたわたし達以上に隠密部隊じゃない……」
静「船首に櫓を付ける事を景時さんが提案して、それを義経さんが臆病者と笑うという話もありますけど〜、実際にそういう逆櫓というのもありましたし、この場合は内陸育ちの義経さんが無知という事になっちゃいますね〜。そーいう海に対する知識の無さが、強引な出航に繋がったのでしょうけど〜」
与一「しかもその話の続きで、荒れ狂う海に船出するのを嫌がる船乗りを『船を出さないなら殺す』などと脅迫もしているからな。……ちなみに屋島での私は、扇と老人を弓矢で射抜いたという、微妙に嫌な話を伝えられている」
紅葉「ともあれ屋島を失っては万事休す。早くも3月には長門の赤間関(下関)の近くの壇ノ浦で平氏は壊滅して、安徳天皇や知盛様など平氏の重鎮の多くは、神器の1つである剣と共に、海の底へ沈まれておしまいになりました。ここから、安徳天皇は竜の化身で剣を取り戻しに人として生まれたとか、神器の剣の代わりこそが頼朝様だとか、実は安徳天皇は南の果てまで逃げ延びられたとか、取り残された官女が身をやつしたのが赤間関の遊女の起こりだとか、平氏の武士の無念が平家蟹として生まれ変わったとか、様々な話が生まれておりますわ」
玲奈「ここでも義経は、とっくに死んでるという説のある教経を追い掛けて八艘跳びをしたり、弱い弓を落としたのを必死で拾ったりしたと伝えられてるけど……冷静に突っ込むと、ホントに総大将の片割れかよこいつ?」
九羅香「でも壇ノ浦で自害した人達って、誰も切腹せずに身を投げているよね? 弁慶でも分かるように説明してもらえる?」
知盛「本来切腹とは、内臓を出して『我は潔白なり』という事を示す自害方法なのだ(江戸時代に処刑の一種となると、かえって疎まれるようになるが)。だから安徳天皇を頂く身として、潔白な事は示さずとも当然として切腹をしなかったとも言えるだろうし、『切腹するくらいなら1人でも多く倒して討ち死にしろ』と伝えた小弓御所(関東公方分家)のように単なる家の慣習の問題かもしれん」
静「さて最終的な勝因としては〜、昔から『海流の流れの変化』が唱えられてきましたが〜、同じ海流に乗っていれば相対速度は0ですので〜、近年の研究ではどうも分が悪いようです〜。むしろ平氏が引き連れた四国の水軍が裏切った事と、押し流された所に陸上の範頼さん率いる軍団が陸上から矢を浴びせ掛けた事が重要なのではないでしょうか〜」
九羅香「余談だけど安徳天皇の『徳』という字は、崇徳天皇や順徳天皇と同じで、都落ちして果てたお方に差し上げる文字だからね」


・壇ノ浦以降(元暦2/文治元(1185)〜)

玲奈「さて、壇ノ浦の合戦が終わって、歴史はゲームでは描写されていない場面に移るんだよな?」
弁慶「なにっ!? それじゃ観月ちゃんの水着姿を見られないって事か!? オレとしてはスクール水着を着せてみたかったのに!」
九羅香「(無視)壇ノ浦の合戦の後、範頼殿は九州に滞在して、義経が軍勢と宗盛殿・時忠殿のような捕虜、建礼門院様や守貞親王様のような重要人物、神器のうち鏡と勾玉の2つを携えて4月に京に凱旋したんだ。……安徳天皇と剣を確保できなかったのは大問題だったけど……」
与一「そうして義経殿が凱旋気分でいるさなか、景時殿は鎌倉に義経殿の不義を訴える。巷では讒言だの何だのと言われるが、大将としての自覚の無さと、政治的配慮の致命的な欠如が問題視されたのだろうな。平氏の捕虜を自分の邸宅に収容するのはともかく、関東でも名門の河越家から妻を得ているのに時忠殿の娘とデキてしまうのは、この場合大問題だったと思うぞ」
静「今度はジョートショップの青年さんか、自警団第三部隊の隊長さんみたいですね〜」
九羅香「お願いだからその言い方はやめてー!」
景時「もちろん鎌倉殿の事だから、私以外、特に範頼殿の軍監の土肥実平殿の報告や、鎌倉の側近達の判断も参考したはずだが、ともあれ鎌倉殿は義経の命令権を取り上げる事にされた(もちろん以前持っていた畿内の支配権は、四国に出征する際に居残った者に引き継がせて既に失っている)。その後義経は捕虜を連れて鎌倉に下るが、途中で従者の伊勢義盛が鎌倉殿の同腹の妹の婿の藤原(一条)能保殿と揉め事を起こして余計に心証を損ねた事もあり、相模の酒匂で北条時政殿に捕虜を受け取られ、鎌倉に入る事を禁じられたのだ。……けっ、ざまあみろ」
紅葉「史実モードを混合させないで下さいまし……。そこで未練に溢れた義経様は、鎌倉のすぐ外、江ノ島の近くの腰越で、愛しのお兄様に真情を吐露する書状をしたためるのです」
与一「紅葉……史実だとそれは男同士なのだが……」
弁慶「でも義経は、『とっとと帰れこの出っ歯チビ』と言われて追い返されたんだよな」
景時「……別にそういう記録はないが、そのまま捕虜を連れて京に行くよう命じられた事だけは確かだ。さらに追い討ちを掛けるように平家没官領――没落した平氏から取り上げた所領――で義経に分けていた分を没収してしまうが、それでも義経は全く反省もせず、鎌倉殿の推挙で伊予守になったにもかかわらず検非違使判官のまま京に居座り、しかも行家としきりに通じるようになっていた」
九羅香「えーと……誰それ?」
玲奈「前に出した系図を見ろよ! あんたの叔父さんの源行家! 以仁王の令旨を頼朝とかに手渡して、後になって頼朝と仲が悪くなると義仲にくっついて京に入って、義仲の旗色が悪くなると見捨てて独立していた奴だ! ついでに言うと元の名前がこっちのモデルと同じ『義盛』だった奴!」
九羅香「……あ、そうそう。忘れてただけ忘れてただけ(←嘘。ほんとーは存在すら覚えていない)」
弁慶「それにしても、行家ってまだ生きてたのかよ。その生命力の図太さって、何だかゴキブリを連想するよな」
静「ハイ〜。そーいう事もありまして、改元後の9月には梶原景季さんが義経さんの行動を偵察しに京に上り、10月初めには義経さんに叛意ありと頼朝さんに報告したのです〜」
景時「そして鎌倉殿は土佐坊昌俊を追討のために派遣したのだが、義経は土佐坊を返り討ちにして殺してしまう。しかも法皇は何を考えたのか行家と義経に頼朝追討の院宣を出す――『出させられる』かもしれんが――始末で、とうとう腹に据えかねた鎌倉殿は、2人を征伐するために北条殿などを京に向かわせた」
与一「この時の時政殿は藤原(九条)兼実殿の日記『玉葉』に『北条丸』、意訳すると『北条とかいう奴』と書かれてしまうような地位だったが、義経殿達を追討する院宣を出させただけでなく、義経殿の追討を目的として国に守護を、謀反人跡の荘園に地頭を置かせる事を認めさせた辺り、政治家としての腕はますます上がっていたようだな」
紅葉「ところで、時政様が上洛してからの間、義経様はどうしておられたのでしょう?」
景時「行家と共に西国へ逃げようとして船に乗ったが、渡海に失敗して畿内に押し戻されている。屋島攻めでは成功したが、海を甘く見たツケが降り掛かったようだな?」
九羅香「……で、大和の多武峰から十津川に逃げる途中に、吉野で側室の静殿とはぐれてしまったんだ。静殿は年末に京で、翌年の文治2年(1186)には鎌倉で取調べを受けて、この時鎌倉で産んだ男の子が即座に殺されているんだって」
静「まあ清和源氏で、おまけに関東ですからね〜。驚くほどの事ではないでしょう〜」
景時「…………今初めて、お前に同情したぞ義経」
九羅香「…………静への制裁は後回しにして話を続けると、文治2年(1186)には『まだ多武峰にいる』とか『伊勢を通って奈良に潜伏した』とか『仁和寺に隠れた』『いや岩倉だ』『比叡山だ』とか噂が飛んだり、義経殿の母君(常盤殿)と妹(多分、再婚相手の藤原長成殿との子供)が捕まったり、従者だった若者が捕まって『比叡山に隠れた』と白状したり、兼実殿の嫡子の(月輪)良経殿と読みが同じだからって『義行』に改名させられたり、『行』の字が入っているから捕まらないという理由で『義顕』に再改名させられたり、武士を奈良に派遣して本格捜査に乗り出したりと、まるでテロリストの大物紛いの扱いを受けていたんだけど、結局捕まらずに年が明けたんだよね。……和泉に潜伏していた行家殿は、北条家の本家筋らしい時定殿に殺されているけど」
与一「こうして義経改め義行改め義顕で明け暮れた1年だったが、続く文治3年(1187)も義経探しに終始した。いーかげん法皇様も愛想が尽きたのか義経追捕に積極的に協力し、鎌倉の方でも『伊勢や美濃を経て奥州に下った』とか『美作で殺された』とかいう噂が飛び交う中、京で藤原能保殿に所在調査をさせたり、鎌倉の寺社に義経が捕まるように祈らせたり、喜界(鬼界)島まで武士を派遣して捜索したりしていたが、9月になってようやく、平泉の藤原秀衡殿が匿っているらしいと目星が付いた」
弁慶「で、奥州藤原氏もろとも義経は滅ぼされたんだろ?」
紅葉「気が早いですわよ弁慶様。10月に秀衡様は亡くなられますけど、次の文治4年(1188)には義経追討宣旨が出るくらいで動きらしい動きはありませんでしたもの」
景時「水面下で何があったかは(記録に残されておらんから)言えんがな。しかし文治5年(1189)の閏4月にとうとう、秀衡の跡を継いだ泰衡が、平泉の隣の衣川で、めでたく義経を討ち取ったのだ。わはははばんざーいばんざーい」
九羅香「景時殿の妄言は無視して、この時に奥方や弁慶も討ち取られているんだよね。ここまでの話でも、静御前が義経を慕う舞を鶴岡八幡宮で舞ったとか(これは一応史実だけど)、加賀の安宅関で在庁の富樫介に見咎められたとか――」
弁慶「そこで弁慶に杖でぶたれてSMに――」

ざごしゅざごしゅざごしゅ。

九羅香「衣川で弁慶がこーいう感じで立ったまま死んでいたとかいう逸話が、多くの人々の間に膾炙しているよね♪」
与一「……しかし鎌倉の軍勢は7月に奥州攻めに出発し、8月には既に平泉を陥落させていた。途中の戦らしい戦は阿津賀志山(現:厚樫山付近)の短期間の攻防だけで、多賀にある国衙の在庁官人にも即座に見捨てられ、泰衡も9月初めに殺されている。信夫の佐藤家が上位の荘官職を奪われるのも、この合戦が契機となっているようだ」
静「その後建久元年(1190)に頼朝さんは上洛、2年(1191)に前右大将家政所の正式開設、3年(1192)に法皇様が崩去された後には征夷大将軍となりますが〜、4年(1193)には曾我兄弟が富士の巻狩で頼朝さんの宿所を襲撃し、6年(1195)に上洛した際に大姫さん(清水義高さんの許婚だった人)の入内を計画しますが失敗と、勢いに陰りが見えてきます〜。とうとう7年(1196)には、頼朝さんと親しい関白の藤原(九条)兼実さんとその親族が、後鳥羽天皇の乳母の夫で皇太子為仁親王さんの外祖父でもある源(土御門。室町時代に断絶した家系で陰陽道の安倍姓土御門家とは関係ない)通親さんの手により失脚させられ、9年末に――どーやら糖尿病で足腰が弱り――落馬、10年(1199、改元後は正治元年)早々に亡くなってしまいました〜。建保7年(1219)に鎌倉の源氏将軍が3代で絶えるのは20年、承久3年(1221)に後鳥羽上皇を破って幕府が最も有力な権門となるのは22年も先の事となります〜」
景時「わはははばんざいばんざーい」
紅葉「……ちなみに景時様も、政争に巻き込まれて正治2年(1200)には殺されております」
玲奈「とゆーワケで……分かったか弁慶?」
弁慶「……………………(だくだくだく……)」
与一「…………元は弁慶に分かるような講義を目指していたのに、何度も何度も暴行加えて、生身で立往生を実演させてどーする九羅香殿」
静「ワタシが術で弁慶さんを治した後で〜、今夜は朝まで勉強会で帰しませんよ九羅香さん〜?」
九羅香「あーん! 勘弁してよ静ーっ!」


〈参考資料〉
『新訂 官職要解』(和田英松/所功校訂、1983、講談社)
 …元が古い本だが概ね頼りになる。ただし最新研究との照合は忘れないように。文庫本なので持ち歩きにも便利。
『日本中世史入門』(中野栄夫、1986、雄山閣出版)
 …著者(ここの筆者が在学中にお世話になった先生の1人)曰く、「本当は『日本中世史研究入門』にしたかった」という曰く付きの1冊。予備知識があればよい参考書になるが、予備知識の全くない人間には薦められないだろう(汗)。
『人物叢書 源義経』(渡辺保、1966、吉川弘文館)
 …伝説を離れ、歴史上の義経を辿るのに向いている。愛があれども暴走はしない執筆態度は、歴史を学んだ端くれとして学びたいものである。
『源義経』(五味文彦、2004、岩波書店)
 …新しい研究も色々と反映してあり、新書なので普通の人にも分かりやすい。史実と伝説を比較して見るのにも最適。
『平安時代史事典』(1994、角川書店)
 …著述が比較的新しいため、昔の定説に煩わされる心配が少ない。ただし人名は名字ではなく姓で引くので(例:佐藤継信→藤原継信、梶原景時→平景時)要注意。


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