続・悠久幻想曲・フィクションデータバージョンSS
セリーヌ救出大作戦
(前編)
〈注意〉
この話は松さんの「悠久幻想曲・フィクションデータバージョンSS」の(勝手ながら)続編です。
主人公(2)(第三部隊隊長)の名前は「ベータ」です。
>>>1.いつも通りの、またはいつも通りではない朝
「ん……」
ある日曜の朝、自警団第三部隊の隊長であるベータ――公式データでは種族・性別・年齢は全て不明――は、貴重な非番の朝を惰眠に費やしていた。毎朝退屈しては騒ぎまくるヘキサは由羅の家で外泊しているので、この安らかな一時を邪魔する者は誰もいない。そして細身だが引き締まった全身の上に、軽く被っていたのは一枚の毛布だけだった。
ベータの中性的な容姿は温泉に浸かったかのように無防備に緩み、胸元ははだけて露出している。ほのかな赤みが差していたのは、血色の良い白い肌。ほっそりとした身体には意外と筋肉が付き、愛用の刀さながらの強靭さを感じられる。
しかし、その寝姿を見る者は誰もいなかった。天井裏に半分めり込んだように空中に浮いている、ピンクの髪をして大きな赤いリボンも付けて、フリル付きの古風な衣裳を着込んでいる少女の精神体を別として。
「すぅ……」
(うふふ〜、お兄ちゃんの寝顔って素敵よね〜)
満面に笑みを浮かべた少女、ローラ・ニューフィールドは、百年間の魔法睡眠から目覚めた時、肉体は寝たままで精神体だけが目覚めていた事があった。その後ジョートショップの居候アルファに肉体を発見されて元通りに戻るが、精神体時代の壁抜けや覗き見の快感を抑えられずに家代わりでもある教会で神聖魔法の修行を重ね、肉体を非物質化して精神体になる魔法を開発した訳である。もちろんその対象が、初恋の対象だったアルファに次ぐ二人目の「お兄ちゃん」として慕うベータであった事は言うまでもない。
ちなみにアルファは大勢の女の子に好かれ、しかも朴念仁なくせに時折暴走するせいで、「煩悩魔人」「妻七人の男」などという不名誉な二つ名を頂戴している。その当時は第三部隊の単なる隊員に過ぎなかったベータはそれを噂で聞いて苦笑していたが、第三部隊の再建のために働いた一年のせいで、今では自分まで「鬼畜大王」だの「妻八人の男」などと呼ばれる始末なのでもはや笑えない。
一応言っておくが、ベータ本人は決して女性に対する行動が鬼畜なわけではない(はず)。年上の美人から年下の可愛い娘まで年齢に構わず想いを寄せられたが故の称号である。……まあ稀に、虫歯を痛がるローラに氷水を飲ませようとしたり、そういう類の行為に及ぶ事もあるのだけれど。
(でもその二つ名、ある意味間違っているんだけどなぁ)
そう心の中で呟きながら、ローラはベータの寝顔を隅から隅まで堪能する。精神体をふわふわと舞わせ、気配が近付き過ぎないように距離を微妙に調整して。
それからしばし経過した後、歓喜を堪えるように含み笑いをするローラ。ポジションをベータの真上に取り、来るべき行動のために適切な姿勢を取る。
(さぁて、そろそろいつものアレで起こしちゃおっと♪)
ローラが魔法を解除すると精神体はいきなり実体化して、重力の赴くままに質量兵器としてベータを直撃した。
「ぐはぁっ!」
「おっはよ〜、おっに〜いちゃんっ♪」
夢の世界から手荒く呼び戻され、ベッドの上に上体を起こしたベータ。その真正面でローラは小柄な身体をくっつけて、ついでにホッペをすりすりしてみたりする。状況に対応できずにしばらく硬直していたベータだが、ようやく復帰すると手荒く毛布を跳ね除けて灰色の目で睨み付ける。視線は鋭いが、体格が華奢なのでいまいち迫力がない。
「って、いきなり何をするんだローラ!?」
「おはようの挨拶じゃない。付き合ってるんだからこれくらい当然でしょ?」
「いや、百年前のそれも貴族の常識を持ち出されても……」
ローラは王家に連なる名門、ニューフィールド家のお嬢様だった。そのせいか妙に芝居掛かったアクセントといい、お約束にこだわりまくる恋愛感覚といい、何となくベータは違和感を感じてしまう事がある。さすがは百十四歳であると言えるだろう。
「ちょっとぉ!? 百十四歳ってどーいう意味よそれっ!?」
「……誰と話しているのかはさておきそれ以前に、男が一人の部屋に断りもせずに入り込んだらまずいだろ」
そう言って嘆息するベータ。その苦笑交じりの暖かい視線は、兄が妹に対して向けるような、いや並大抵のそれ以上に感じられるもの。
しかし直後のローラの行動は、ベータの想像の埒外にあった。
「やだなぁお兄ちゃん。お兄ちゃんは両性具有なんだから、ある意味女同士とも言えるでしょ?」
「へ?」
ローラはいきなり、ベータの胸元に手をやって服を広げた。そこにある二つの小ぶりな膨らみは、ローラの発達しかけの胸よりも少し大きい。指先で確認すると弾力もいい感じで、サイズ以外は理想的にローラには感じられた。
――そして数分後。
「…………」
「じ〜っ……」
「……………………」
「じぃぃぃぃぃ〜〜っっ……」
胸を触られて硬直しているベータにも構わず、凝視を続けていたローラ。
やがてがくりと肩を落とし、しくしくとオーバーアクションで、大きな袖に顔をうずめるようにして泣く。
「あぁ〜ん! 何で半分は男の人のお兄ちゃんの方があたしよりいい胸してるのよぉ〜!」
「いや、だからどーして俺を比較対照に……」
ベータは硬直を解き、身繕いしながら呟いた。意味の取りようによっては状況が底無し沼になりかねなかったが、幸いにもローラは自分の世界に浸って耳を傾けていない。
「うぅ……。毎度ながらお兄ちゃん……というかこの場合はお姉ちゃんの胸を見てると自信なくしちゃうかも……」
「な〜んの自信なのかなローラ? 同衾までしてるボクを差し置いて」
「……な、なぁに〜?」
ふと我に帰ったローラの背後に、凄まじく剣呑な空気が陽炎のように立ち昇る。発生源も陽炎のように幻だったらいいなぁと淡い希望を抱いたローラだったが、覚悟を決めて振り返ると見覚えのありすぎる黄色の大きなリボンが目に入った。
「え、えーと、そのリボンは新しく買ったの?」
「半月前にキミから貰ったリボンを誉められても、ボクとしてはぜんっぜん嬉しくなぁ〜い!」
背後からローラに近付いていたのは、ローラと同じく「妻八人」の一人トリーシャ・フォスター。ローラの親友であり、かつてローラと同じく「妻七人の男」アルファに初恋を抱き失恋、そして今はベータを巡る最大のライバルでもある。二人とも甘え癖がありスキンシップ過剰、しかもデートの度に物(特に食べ物)をねだる悪癖を持つという点では似た者同士だが。
「ところでローラ、鍵を閉め切って『ボクの』ベータさんと何をやってたわけ?」
「鍵は最初から閉まってたの! そもそもトリーシャちゃんもどうやってここに入ってきたのよ?」
「昨日は空間転移だったけど、今日は鍵開けの呪文♪」
学校で教えるような呪文ではないが、マリア辺りから手に入れたのだろう。呪文そのものは別に違法ではないとはいえ、少なくとも不法侵入そのものは刑事犯だし、治安関係者が集団居住している自警団の団員寮でやってのけるのは「現行犯で逮捕して下さい」と大声で叫ぶようなものである。特に部隊長の右斜め前方1メートル先では。
「……トリーシャ、ちょっと自警団事務所まで来い」
「何で? 不法侵入の回数はローラの方が多いじゃない」
と言いながらも口調がきつい点から察するに、本人はしっかり気にしている様子。もちろん本人以上に気にしているのは、嫉妬で理性が壊れかけた恋敵だった。
「あたしは覗き見だけしてるけど、トリーシャちゃんはいっつもエッチな事を目的にしてるでしょ!」
「な、な……っ!」
トリーシャは一気に顔が赤くなり、口を酸欠の鯉のようにパクパクと動かす。ローラを指差そうとする手も、指先が震えて照準が定まらない。
「そもそもトリーシャちゃんは手料理もみんなスタミナ付きそうな物ばかりだし、『あたしは生贄二号でーす』って言わんばかりのレオタード姿しちゃってさ!」
「誰が生贄二号なのさぁ!? ボクとベータさんはパティとアルファさんじゃないんだぞ!」
「はいはい。お子様同士のじゃれ合いはそこまでよ」
「……へ?」
二人の女の子が掴み合いを始めていた所に、ライシアンの女性が割り込んだ。女性は背が高く、トリーシャより頭半分――と狐耳――上回っている。
「えーっと…………」
いきなりの闖入者第三弾に、部屋の主は目を見開いて言葉も出ない。闖入者第二弾も部屋の主と兄妹のようにそっくりの表情で唖然とし、闖入者第一弾は何の疑問も感じずに喜んでいた。
「ゆ、由羅さん?」
「おっはよー由羅さん! 今日も元気ぃ?」
驚愕と舌打ちの中間辺りで戸惑うトリーシャと、当然のように笑顔で挨拶するローラ。女性――橘由羅もやはり「妻八人」の一員だが、享楽的で他人にちょっかいを出す方が好きなので、トリーシャやローラほど実力行使は好まない。長身なのに肉体的に虚弱なライシアンなので、元から(魔法抜きでの)実力行使は無理だろうが。
「もちろんよ。しっぽぴか〜んって感じかしら?」
「いや、だからあたしには尻尾は無いし……」
「でも耳はあるでしょ? 可愛い赤の」
「ちっがーう! これはリボン!」
狐のような耳と尻尾をぱたぱた動かす由羅に、ローラはつんとした表情でむくれる。普通の女性では嫌悪しか呼ばないそんな表情も、貴族らしい整った容姿にはかえって愛らしい魅力すら感じさせた。もちろん、普段のローラが(覗き癖とおねだりを除けば)とても素直で善良だからであるが。
(ちょっとぉ! その括弧の中は何よー!)
(……いや、だからナレーションに突っ込んでどーするのさ?)
そんなやり取りを見ているうちに現実復帰するベータは、状況を察知するや否や、由羅の両手をひしりと抱き締めた。だー、と涙を溢れさせ、ついでに目まで潤ませるその姿は、とても自警団の隊長には見えない。まだ胸元ははだけて、女性でもある証の膨らんだ胸は剥き出しのままだし。
「ああっ由羅! 普段ならともかく今日だけは感謝する!」
「その言い方は何か引っ掛かるけど……ともかく二人とも、朝っぱらから喧嘩しているとベータくんに嫌われても知らないわよ?」
「……はーい」
由羅の言葉とベータの大袈裟な態度に気の抜けたように娘二人は引き下がり、ベータは睨み合いから解放された安堵でほぉ、と息をつく。もちろん胸元の双丘は、ローラから解放されるや否や即座に隠して。
「ありがとう由羅。助かったよ」
「情けないわねぇ、トリーシャちゃんとローラちゃんに詰め寄られただけでパニック起こしちゃうなんて。いっその事二人まとめて押し倒しちゃえばいいのに」
「え? あ、あっ!?」
明らかに事態を面白がっているとしか思えない由羅のとんでもない発言に、ベータは顔を赤くする。さっき約束した手前黙ってはいるものの、トリーシャとローラの視線に一気に殺気が増した。もはや重力さえ感じさせかねない二人分の視線を、容赦なく第三部隊隊長に降り注がせて。
「……隊長さんの色情狂……」
「……もうお兄ちゃんって信じられない……」
とか口では冷たそうに言っているが、顔や首筋が火照っているのは何故か。
しかしアルファと同レベルで激しく鈍いベータは不幸にも気付く様子すらなく、既に赤い顔をより一層赤くしていた。
「う……俺はアルファじゃないってば……」
「そのような発言にはどのような根拠が存在するのかしら、ベータさんは?」
「優柔不断でもないし、煩悩方向に暴走したりもしないって意味だと思うわ」
「でもベータさんだって女性の守備範囲は広いし、しかも女性に意地悪じゃないですか。だから鬼畜大王なんて言われるんですよぉ」
「つまり、アルファ様とベータ様はどっちもどっちという事ですかしら?」
「えーと……」
気付いてぐるりと見回すと、いつの間にか野次馬達が、ずらりとベータ達を囲んでいる。
その数は四つ、視線は……険悪だったり面白そうだったり単に呆れていたりと色々。
「ど、どこから入ってきたのみんな?」
「玄関からですわローラ様。さっき由羅様が入っておられましたもの」
「……いや、そーいう事はクレアちゃんに言われなくても分かるんだけど」
じわ、とローラのこめかみに汗が滲む傍らで、トリーシャはわなわなと肩を震わせる。
いつの間にか揃っていたのは、イヴとヴァネッサとディアーナとクレア。いわずと知れた「妻八人」の一員である。例の約二名ほど過激でもないが、多かれ少なかれ有能危険人物で、自警団第二部隊のブラックリストに収録されているとかいないとか。
「そ・も・そ・もっ! 何でみんながここに揃ってるんだよぉ〜!?」
「私はベータさんが家から借りていた本の回収、ヴァネッサさんは不健康な食生活を送るベータさんに朝食を作るため、ディアーナさんは定期健診、クレアさんは騒がしいのを注意に来ただけよ」
そう言いながら勝手に錬金魔法でお湯を沸かす辺り、イヴらしいといえばイヴらしい。なぜかディアーナも持参したらしいお菓子を白衣の中から取り出し、クレアは散らかった部屋の中を片付けながら「これだから両性具有といっても精神的な殿方は……」とぼやいていた。
総計八人を詰め込んだ狭苦しい部屋を見回し、トリーシャとベータは揃って溜め息を洩らす。
「はぁ……」
「あー! お兄ちゃんとトリーシャちゃんが溜め息を合わせたー!」
「溜め息にまで嫉妬しないでよローラ! こないだもラ・ルナで同じメニュー頼んだだけで大騒ぎするし!」
「ローレライでもエリザベスさんに『兄妹みたいですね』と言われて喜んでたじゃない! でもお兄ちゃんの妹はあたしだって決まってるのー!」
「実年齢が百十四歳のくせに、この蝉娘ー!」
「流行追い掛けてばかりでミーハーのトリーシャちゃんに言われたくないわよー!」
「そー言うローラだってアクセントが変だぞ! それに笑い声だってうるさいし!」
「シナリオの初稿ではコギャルだったくせにー!」
「……………………」
朝から泣きたい気分のベータだが、あまりの混乱ぶり――または阿呆らしさ――もしくは世界の不条理さを前にしては泣く事すらめんどくさい気分になる。その撫で肩に、同情と憐憫を込めた片手を優しく掛けるヴァネッサ。
「……ベータくん?」
「…………寝る」
もはやヴァネッサに向けて溜め息を洩らす力も出せず、ベータはそのままソファーに転がって二度寝を決め込んだ。
>>>2.平穏なお茶と行方不明の保母
雷鳴山を見渡せる、朝日の差し込む窓際。
ローラは自分で淹れたお茶をティーカップに注ぎ、軽く匂いを鼻腔に広げながら口を付けてこくりと飲み込む。
白い喉は微かに動いて、温もりと共に乾いた喉を潤した。
「んーっ、美味し……くな〜い!」
「確かにねぇ。こんな味の悪い紅茶は政府の職員食堂にもなかったわ」
先程のベータの憂鬱が伝染したように顔をしかめ、脚を投げ出して座っているヴァネッサが抹茶茶碗を床に置いたお盆の上に戻す。
一応言っておくが、抹茶茶碗に入っているのもやはり紅茶。数百年前の王国が大量に受け入れた諸島国のサムライやニンジャ達が伝えた文化だが、こーいう無理解を見たらきっと、草葉の陰で声を忍ばせ嗚咽している事であろう。
あの後結局、ベータ達はそのままお茶を飲み始めていた。湯飲みやカップはやたら多いため、場所はともかく容器では不自由しない。もちろんその前に、散らかり放題だった部屋は特にトリーシャとクレアが片付けて全員分の居場所を確保している。
そして傍らでも、コーヒーカップを手にしたイヴが顔を微妙にしかめる。
「こちらもどうやら、諸島国の玉露なのは缶の外見だけだわ。食事だけではなくてお茶まで安物で済ましているのねベータさんは」
「生活切り詰めて貯金ばかりするなんて、心にも栄養を取らないとストレスが溜まりますよ。ベータさんは神経図太そうに見えて脆いんですから」
「……すいませんイヴ様。あと後半は余計だぞディアーナ」
いくら自分で無茶だと考えていても、そこを指摘されると腹が立つらしい。
そんなベータの気分を察したのか、トリーシャが後ろからベータにもたれ掛かる。ついでに両手を前に回し密着度を普段より増して、愛しの君の理性に圧迫を与えて。
「ト、トリーシャ!? そ、そのっ、背中に胸が!?」
「気にしないでいーよ。乳房くらいベータさんにも付いてるし♪」
いきなりの温もりと感触に狼狽するベータには構わずに、後ろから耳に囁くトリーシャ。途端に周囲からの視線が険悪になるが、そんな事を気にしない少女はそのままの姿勢で話を続けた。
「確かにあるけどそれ以外も同じってわけじゃないし……その前にそちらは男の方の……」
「やっぱりお茶がおいしくないの? 確かにベータさんは主食が缶詰だっていうくらい食費を切り詰めてるから、ボクが通い妻してあげないとそのうち餓死しかねないけど」
相手の話を全く聞かず、調子に乗ってベータの下腹部にまで手を伸ばそうとするレオタード姿の少女だった。身内ばかりだからいいものの、これがさくら亭だったらパティとシーラに叩き出され、陽の当たる丘公園だったらシェリルに小説を一本書かせてしまうのは必定である。
「……ま、まあ確かにヘキサも喜ぶし」
ここで抵抗を諦めるのは、惚れた弱味か上司としての責任感か。もちろんその程度で遠慮するような恋人ではなく、耳元にキスするようにベータの肩に顎を預けてくる。
「とゆー事で今夜……じゃなくて今晩もボクと……」
「お醤油の使い過ぎで塩分過剰のトリーシャちゃんが作っても、高血圧で体に悪いのは一緒でしょ」
一方的にばかっぷる行為に及ぶ親友兼恋敵の所業に対して、不満げに、というよりあからさまに不満を浮かべ、ローラが険悪な目でトリーシャを睨む。もちろん自分がベータの膝の上に密着する事も忘れない。
「トリーシャちゃんのお料理はすっごくおいしいけど、炒飯も煮魚も漬物もどーしてみんな黒いのよ!? お兄ちゃんというかお姉ちゃんからも聞いたけど、先々週の日曜なんか一日に二度も中瓶のお醤油を買いに行かせたそうじゃない!」
「醤油味のどこが悪いのさ!? ローラだってあんなに美味しそうに意地汚く食べてただろ!?」
「だいたい今口を滑らせた『今夜』って、お兄ちゃんに精の付く物を食べさせてエッチな事を迫ろうとでもしてるんでしょ!」
「ちょっとちょっと、朝からどーいう会話してるんだよお子様が!」
「あたしは百十四歳だからいいのー! 十七歳のトリーシャちゃんと一緒にしないでー!」
「都合のいい時だけ百十四歳になるなー!」
そんな険悪な二人をよそに、由羅も耳と尻尾を「しょぼーん」とでも擬音が付くように元気なく垂らした。手元にはお猪口があるが、その中身は酒ではなく、例のまずい緑茶と例のまずい紅茶のブレンドという最悪の代物。
「それもあるけど、そもそもベータくんって部屋だとお酒を飲ませてくれないのよ〜」
「付き合い程度にはお酒も飲むけど、隊長が非常時に酔いが覚めないと困るだろ?」
確かに正論である。「由羅に一献付き合わせる口実を与えたくない」というもう一つの理由は秘密だが。
「そんな事言ったって、魔法を使えば酔いなんかすぐに覚めちゃうのに」
「態度の問題だ。というか酔ってると魔法になんか集中できないぞ」
「うぅ……ベータくんのけちぃ……」
「まあまあ、由羅さんもベータさんも喧嘩しないで下さいよぉ」
泣き真似をする由羅と平然とお茶をすするベータ、そして睨み合うトリーシャとローラ。そんな四人を眺めながらディアーナはちょっと恥ずかしそうにうつむいて、自慢そうにして年の割に大きめの胸を微妙に反らす。それにしても、手と口以外も器用な娘さんだ。
「そんな我慢をしなくても、あたしが酔い覚ましの薬を調合できますから大丈夫ですよ?」
「ディアーナさんがベータくんを毒殺したら、気の毒だけど自警団員の義務として身柄を拘束しないといけないわね」
相変わらず憂鬱なままのヴァネッサが、ぐさりとディアーナに釘を刺す。ちなみに大陸では警察と司法は分離されておらず、エンフィールドでも自警団が逮捕から処罰まで全てを担当している。しかも容疑者は被告に準じるものとして扱われるのが普通で、人権の保障など無いに等しい。ましてや忌み嫌われる毒殺などした暁には確実に即刻処刑され、翌日の暁を拝む事など不可能だろう。
「素で返さないで下さいヴァネッサさんっ!」
「大丈夫よ。ベータくんってひ弱そうだけど抵抗力は強いし、それに私は近頃頻発しているカルテ盗難事件の方が……」
そう言いながらヴァネッサは眠そうにして、壁のクッションに身を投げ出した。エンフィールドのあちこちの病院や公的機関から医療診断書が盗まれる事件が相次いで、捜査の主体となっている第一部隊に応援として駆り出されているヴァネッサがほとんど寝ていない事を知っているベータは、無言で毛布を身体の上に掛ける。
「大きい……」
「……大きいって何が、ローラ?」
「……何でもないのっ。トリーシャちゃんは静かにしててっ」
毛布越しでも明らかな、ヴァネッサの長身に似合った豊かな胸を凝視しているローラ。そんな光景には気付かず、本人はもそもそと毛布に潜り込み目を伏せる。
「……そもそも第一部隊、というかアルベルトくんに捜査をやらせている事自体、迷宮入りの序曲だってアルファくんに、そう、指摘というよりほとんど罵られたんだけど」
「アルファ様は……兄さまを嫌っておられますから」
(……アルファくんとアルベルトくんの事だから、『蔑んでますから』の間違いじゃないかしら?)
ジョートショップのアルファ・アスティア――弱視の未亡人店主アリサを支える養子は元は流れ者で、本人曰く――、
「阿呆な自警団員と愚昧な大衆のせいで、馬鹿げた冤罪を押し付けられてアリサさんを苦労させた」
――という。アリサに懸想(笑)しているアルベルトもアルファを邪魔者としか思っておらず、「冤罪」の件では捜査を逸脱した妨害を執拗に続けていた(ヤンやクラウスによると捜査自体は真犯人の目をごまかすためのカモフラージュだったらしいが、カモフラージュに使われる側としてはたまったものではない)。そのせいでアルファ本人は自警団員全てを嫌うようになり、ベータもアルベルトから間接的に迷惑を蒙る結果となった。今ではアリサの仲介もあり、「第一部隊と第三部隊は別」と割り切っているようだが。
(猛獣みたいな人だもんね。お父さんがいなかったら誰にも使いこなせないんだもん)
と、トリーシャも、父親の第一部隊隊長リカルドを思い浮かべる。百九十九センチメートル(爆発頭は含まない)の長身に似合わず、男女問わず年下の子供には意外と優しいアルベルトだが、裏返すと――いや、何も言うまい。
なおアルベルトも一応はそれなりに強いはずなのだが、リカルドの一撃必殺の拳すら見切るアルファに対しては連敗記録を更新している。
「ベータ様はアルファ様と同じ種族なのですから、何とかしてアルファ様と兄さまを仲直りさせて頂きたいですわ」
「無理だよ絶対」
とも言えずに、今日もベータはクレアの潤んだ猫目を前に苦悩する。
「うーん、おっかしいなぁ」
考え深げなローラの翠色の目。そこに由羅が視線を合わせ、興味深そうに覗き込む。
「何が?」
「こーんなに騒いでたら、セリーヌさんが『なぜか』顔を出しそうなのにね。凄い方向音痴なのに、なぜかお兄ちゃんの存在だけはフェロモンで感知しているみたいだし」
セリーヌ・ホワイトスノウ。教会付属孤児院の保母であり、同居者の言う通り激しい方向音痴で名高い。しかし自警団第三部隊の隊員として勤め続けた一年の間に、教会と事務所の行き来は辛うじて自力で可能になった。そのせいで、ローラが言ったような冗談も誕生していたわけである。
「セリーヌねぇ。洗濯か子供の相手じゃない? 買い物だと危ないけど、近頃は神父さんやネーナが絶対に外に出さないようにしているし」
と、むごい言葉を由羅は吐く。何だか冷たい身内だが、迷子ついでに新大陸を発見し、「セリーヌ大陸」と命名させてしまうような相手には、いくら用心しても足りないだろう。異様な頑丈さでどこからでも必ず生還するから、根本的な点ではほとんど心配はしていないが。
その例に漏れず、ローラもやはり冷たかった。心の中の引き出しにセリーヌの事を放り込み、棚ごと心の外に投棄する。
「……まあいっか。それじゃお休み〜っ」
そしてローラは目を閉じて、ベータの胸元に身体を寄り掛けながら、クレアの哀願とトリーシャの嫉妬交じりのうめき声をBGMにしながら眠りに落ちていった。
「……やっぱりさ、こういうのって胎教には良くないよね由羅さん」
「……ローラちゃん、後であたしの家の倉に来なさい」
妹分のメロディと同居しているだけあって、教育には意外と厳しい由羅だったりする。
そしてその頃セリーヌは、どこだかよく分からない場所で蓑虫のように縛られて転がっていた。もちろん好きでやっているのではなく、目の前でふんぞり返っている女性の仕業であろう事は想像できる。女性は見たところ四十歳くらい、年齢相応より老けた顔付きで、いらつきが張り付いた地顔の人相を色眼鏡が余計に悪くしていた。
「あの〜、そろそろ帰して頂かないと洗濯物を取り込めないのですけど」
「そんな事より、あなたが私達の人質だって事は分かってるの?」
必死の懇願が全く理解できていない目の前のおばさんは、偉そうにふんぞり返った手下らしき二人に両側を囲まれていた。立派な仕立ての制服らしき物を着ているが、セリーヌの見るところ中身はごろつきでしかない。三人に共通する世界の全てを見下すような雰囲気は、仲間である他の二人すら対象としているのは歴然で、そのあまりの腐れぶりに吐き気すら覚えたほどである――洗濯物が増えるのは面倒なので我慢したが。
そんな切なる思いは当然ながら届かず、手下達はセリーヌを蔑むような目で舐め回す。セリーヌはちょっとむっとしたが、ベータから教わった「いやらしい目付きには気を付けろ」という言葉を思い出して、とりあえず貞操の危機はないんだと自分を落ち着かせた。
好青年風なのに無責任に態度が大きな男が、貫禄と尊大さを履き違えた男と顔を見合わせ、あからさまにこちらをちらちら見ながら脳が生ぬるいような笑い声を上げる。
「まったく、孤児の分際で僕達に手間を掛けさせるなんて身の程知らずだよ」
「その通りですね。田舎者には立場をわきまえて欲しいものです」
「お黙り!」
まだ名前も知らないおばさんが一喝して、手下甲と手下乙(勝手に命名)が心底嫌そうに引き下がる。視界の外に引っ込んでからも、舌打ちと愚痴が壁に反響してよく聞こえた。
「……おほん。失礼したわね」
「ええ。本当にこの上もなく失礼で、小学校で礼儀の基本を叩き込み直した方がよろしかったのではないかと」
セリーヌはできるだけ穏便に、イヴに教えてもらった話法を使って若布頭のおばさんに自分の意見を伝えようとした。しかし若布頭は納得せずに、いつも通りの顔で吐き捨てるように言葉を投げ付ける。
「……正直は常に美徳とは限らない、って事はご存知?」
「少なくとも、自警団事務所への道を伺いましたのに、森の奥へ連れ込んで大勢で押し倒すような人でなしよりは良いと思うんですけど。あれはまさしく、生まれ変わって人生を考え直して来いと言うべき無様な体たらくでしたよね」
「…………………………………………」
話法が効いたのか、ぐるぐる巻きに縛られるまでに大勢をパンチで薙ぎ倒した事実に怯えたのか、若布頭は色眼鏡の奥の目を行き場の定かでない怨念でぎらぎらと焼き付かせ、煽動者のような興奮した演技見え見えのわめき声を吐いた。
「私は知っているのよ! 奴が人間ではないって事を! この真実を利用しないでどうしろという気!?」
「『利用』とかいう幻聴はさておいて……それで?」
一桁の足し算を間違えた数学者を見るような目で――といっても相変わらずの糸目だが――、セリーヌは若布髪の中年(だと思う)女性をひたすら怪訝そうに見詰めていた。一般的に大陸南方の特に都会では、人間が敵対的でない知的種族を嫌悪の目で見るのは恥ずかしい事とされているからだ。
「……もしかして、ご家族や知り合いの方が他の種族の方にひどい目にでも遭われたのでしょうか?」
「は? 何を言ってるの?」
どうやら個人的憎悪ではなく、単なる無知が原因らしい。
(確かベータさんから、公安局の人が由羅さんをライシアンだからって馬鹿にしてたと聞いた事が……あぁ!)
セリーヌの頭の中で、薄れていた過去が現在と重なり合う。トリーシャやローラと一緒に第三部隊の手伝いをしていた時に出会った……、
…………。
……………………。
…………………………………………はずだと思う多分。名前も思い出せないし。
まあともあれ、正体不明の人物が公安局の人間(だと思う)である事を理解したセリーヌは、こんな屑人物を採用した公安局の愚昧さとあえてそんな組織を立てさせた秘密結社に呆れ返る。
(……きっとこういう人だから、元の町の公安局が手放してくれたんでしょうね。嘘つきテイラーさんには自業自得ですけど)
そんな事を考えていた矢先、若布頭の中年女性がセリーヌを、ひたすら怪訝そうに見詰めていた。
「……あのー、あなたって人間よね」
「ええ。少なくとも自警団の入団検査ではそのような結果が出ています」
「…………ま、まあいいわ。私の大義を耳にすれば、嫌でもあんなチンケな連中より正統な権力であるこちらに跪きたくなるはずに決まってるわよ」
……二年前に評議員の少数派が設立して、一年少々で評議会の決定により潰された組織の人物の言う事とは思えない。しかもその直前に、人質に取られた評議員を秘密結社員もろとも魔法兵器で攻撃させた――『した』ではない辺りが意気地なし――当人なのに。
「はあ。で、具体的には何を?」
ともかく、状況把握と時間稼ぎのために無難な質問。相手をできるだけ喋らせて、手持ちの情報を多くする。相手は話したがりのようなので、変に刺激さえしなければ役に立つ情報の一つ二つは耳に入るだろうと考えた。
「ギャランをクラウド医院に潜入させて、私の宿命のライバル……第三部隊のベータ隊長のカルテを奪ってきたのよ」
「公安の人達は給料泥棒だって聞いていましたけど、本当に泥棒さんだったんですねぇ」
さっそく方針を忘れる天然毒舌セリーヌ。だが幸いにも、調子に乗った若布頭は気にも留めない。
「この秘密を暴露して奴が両性具有、しかも種族不明だって事をエンフィールド中に公開すれば第三部隊の評判はがた落ち! これで公安は本来の正当な地位を取り戻すのよ! ほーっほっほっほ!」
取り戻してどうするつもりかは知らないが、かなり手前勝手で乱雑でしかない穴だらけの計画である。そもそも自分らが誘拐犯になっている事くらい気付け。
「公安局はもう解体されたのに、どうやって正当な地位だか何だかを取り戻すんですか?」
「ほーっほっほっほっほっほ!」
「そもそも私を拉致監禁する事と、ベータさんの悪口を言いふらす事との関連が窺われないような気がするんですけど〜」
「ほーっほっほっほっほっほほへほへふほっほほっほほほーっ!」
「あの〜」
二つの発言は全く噛み合わず空回りを続け、果てしなく無駄も極まる形に時間を浪費していく。南方南部に住むという邪悪なヘザーが相手であっても、せめてもう少しは会話の糸口が作れるのではないだろうか。
〈中編に続く〉