エンフィールドの夜は早い。ガス灯が完備され、治安の良いこの街も、日が落ちれば人通りはほとんどなくなる。
住人たちの憩いの場であるさくら亭とその周辺を除けば、住人たちは我が家に戻り、家族と共にテーブルを囲む。
だが。
その男は走っていた。時折肩越しに後ろを振り返りながらも、全く足を緩めることはない。男の頭を占めているのは、温かい食事でも疲れを癒す寝床でもなく、焦りと恐怖だった。
“ハッ、ハッ、ハッ、ハッ”
男は年の頃は20代前半、中肉中背、茶色の髪。顔立ちはハンサム、と言える部類に入るだろう。だがそれ以上に、常人には無い意志の強さを感じさせる。
自警団において住民の苦情処理を担当する第三部隊の若き隊長、シング、これが彼の名である。
しかし今、自警団の実戦部隊である第一部隊に混じっても引けを取らない腕と度胸の持ち主である彼が、恐怖に顔を引きつらせて走っている。普段の彼を知っている人間にとっては、想像もつかない事態である。
“速く……もっと速く!ヤツに追いつかれたら……”
“なんとしてでもヤツを振りきって……寮にさえたどり着ければ……。だが体力的にはヤツの方が上だ……このままじゃ……”
“誰かに助けてもらうか……事務所は……だめだ、もう誰もいない。……フォスター隊長の自宅……ここからじゃたどり着く前に追いつかれる……”
後方の気配は着実に差を詰めている。ガス灯の薄暗がりの中にも関わらず、シングを見失うこともなく、じわじわと彼を追いつめつつある。
このままでは、追手を撒くどころか差を広げることもできない。
“とにかく……ひとまずどこかに隠れて休まなきゃ……とてもじゃないがもう走れない……”
“これだけ走ってちっともスピードが落ちないのか……化け物か、あいつは”
疲労と酸欠のために思考が持続しない。角を曲がり、追手の視界をからはずれたところで、もはや深く考えることも出来ずに手近な植え込みの影に座り込む。
追手は徐々に、確実に近づいてくる。
追手の足音、息づかい、そして殺気が物陰で怯える彼にははっきりと感じられる。
一歩、また一歩と追手は近づいてくる。
追手の手の中の得物がたてる小さな音が聞こえた。
そして彼は、自分に振り下ろされる死神の鎌を幻視した。
永遠にも思える時間が経過したとき、追手の気配はその場から消えていた。最前まであたりを満たしていた殺気も、完全に消えている。
「助かった……のか?」
「生きてるって……素晴らしい……」
安堵のため息と共に、思わず涙目になりながら天を仰ぐシング。
「……人のアパートの植え込みで何訳のわからん事をしてるんだお前は」
「!!!……ルー、か……?」
「俺以外の誰に見えたんだ?」
そこにいたのはシングの良き仲間であり占い好きの天才青年、ルー・シモンズだった。
………………
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「で?何でまたあんなところで震えてたんだ?」
ルーの部屋の中で二人はテーブル越しに向かい合っていた。部屋の主人はいつも通りの飄々として静かな自信に満ちた態度でグラスを傾けていたが、相手は普段と違って傍らで葉っぱをかじっているウサギのアーサー(ルーの同居人)より小さくなって震えていた。
「ああ……ところでルー、お前もう酒飲める歳だっけ?」
「細かいヤツだな……今は別の話の最中だろうが。改めて聞くぞ、何をしていたんだ?」
「………………」
「話したくないならこれ以上は聞かない。だがな、誰かに話した方がいいということもある」
一年前なら絶対に言わないようなことを言っている自分に、ルーは内心で苦笑していた。こいつとつき合っているうちに、だいぶお節介になったらしい……。
同時に、シングをここまで怯えさせるものに対して、興味を持ち始めていた。シングは見るものに地味な、線の細い印象を与える男だが、その精神の骨格は並大抵の太さでは泣く、実力もそれに見合った物を持っている。その彼がこうも怯えるとは、一体何が起きているのか。
「追われてるんだ」
「追われてる?エンフィールドの中でか?」
ぼそぼそとシングは語り始めた。だが、その眼はかつての部隊解散の危機という困難を跳ね返した自警団第三部隊隊長のものではなく、あたかも怯えたウサギのような無力な者の眼だった。
「何にだ?また新しい幽霊でも出たのか?お前ならたいていのモノは返り討ちにできるだろうが。それとも、お前でも太刀打ちできないモノが出たのか?」
「それが……」
意を決して口を開こうとしているが、その視線はふらふらと定まらない。それは今にも追手が現れないかと怯えている逃亡者の眼だった。
“何に怯えているのか解らないが、重傷だな、これは……”
「実は、な……個人的な事なんだが……」
ぼそぼそと話し始めたシングだが、まだその視線は定まらない。そして窓の外に眼をやった瞬間、彼は凍り付いたように動きを止めた。
「おい、どうした」
「見つかっちまった……」
「見つかった?おい、シング、一体何が……」
「済まない、ルー。俺はもう行く。この続きは命があったら次の機会に話すから……」
「おい……」
その時。
窓の外で爆発でもあったかのような勢いで窓が内側に向かって砕け散り、もはや一刻の猶予も無いという表情でドアに向かうシングと、立ち上がって引き留めようとしたルーとの間を何かが風切り音をたてて通り過ぎた。そしてそれは、鈍い音と共に壁に突き刺さって停止する。
「これは……ハルバード!?ということは……」
窓の外に目を向けたルーは、わずかに残った窓枠を体当たりで粉砕しながら、部屋に躍り込む自警団員、アルベルト・コーレインの姿を見た。
「あああああ……」
「見ぃつけたぞぉ……シング」
全身に殺気をみなぎらせるアルベルト、一方のシングは、恐怖に目を見開き、今にも腰をぬかさんばかりの様子で、じりじりと後ずさっている。
「アルベルト……何があったか知らないが、この窓と壁の修理費は出してくれるんだろうな……」
部屋の中で唯一冷静さを保っているルーが、抗議する口調で問いかける。だが、アルベルトは目の前で赤い布をふられた牛か、絶食した末に生肉を目の前に置かれた野犬のようにシングを睨んでいる。
「お、落ち着いてくれ、アルベルト、あれはだな、俺が何かしたんじゃなくて……」
「黙れ!たとえ貴様といえども、クレアをたぶらかした罪は万死に値する!大人しく俺のハルバードの錆になれ!」
その一言で、ルーにはおおよその事情が理解できた。シングにべったりになった最近のクレア、それを苦々しげに見ていたアルベルト、一触即発の状況を動かす最後の一押しがあったのだろう。だがそれに巻き込まれる方はたまった物ではない。
「おい、落ち着けアルベルト」
「邪魔をするなっ!」
頭に血が上り、湯気を吹き上げているアルベルトに全く怯まずルーは進み出た。部屋のこれ以上の損害を押さえるためにも、このイノシシの又従兄弟を止めなければならない。
「こいつなんぞにクレアを任せられるか!それ以前にこいつがクレアに色目を使ったことが犯罪だ!」
確かに今のシングは情けないの一言に尽きる。腰を抜かしかけ、壁に背をあずけてずりずりと扉に近寄っていく様は。
もっとも、自警団ではリカルドに次ぐ実力を持ったアルベルトが、ハルバードを構えて殺気をまき散らしている前で堂々としていられるタマはそういないだろうが。
「……アルベルト、クレアの心配をするのは解るが、シングを追いかけ回すのは筋違いだろう。ヤツがクレアに相応しくない男だと思うのならば、その理由をクレアに説明してクレアに判断させるべきだ、違うか?」
「……ぐっ」
「お前は以前、クレアが自分に干渉し過ぎると言っていたな?今のお前はまさにそれだ。そんなお前がシングを叩きのめしたところで、クレアが素直に言うことを聞くと思うか?自分を振り返ればすぐ解るだろう」
「……だが……」
元々アルベルトは直情径行・猪突猛進型ではあるが、冷静になれば正しい判断の出来る男である。ここで一気に畳み込むべく、ルーは続けようとした。
「だいたい、クレアだってもう子供じゃないだろう……。納得したら部屋の修理費おいてさっさと帰れ。早々と義兄弟喧嘩するのは構わないが、他人を巻き込むな」
「……納得できるかぁぁぁぁ!!」
『義兄弟』のあたりに反応したアルベルトは、壁に突き立ったままだったハルバードを引き抜くと、穂先をシングに向けた。
「クレアに手を出すヤツはこの俺が許さん!そんなヤツはことごとく成敗してくれる!」
「お、落ち着けアルベルト!手を出すって、俺はまだなんにもしてな……」
「『まだ』だとぉぉぉっ!?」
不用意な一言で再び頭に血を上らせたアルベルトの前にいることに、深刻な生命の危機を感じたシングは、悲鳴を上げる間も惜しんで脱兎のごとく逃げ出した。
その背中を、アルベルトの怒号とルーの声が追いかけた。
「待てぇぇぇ!」
「おい!部屋の修理費を置いて行け!」
「ルー!今日は勘弁してくれ!命があったら必ず払うから……!」
「待ちやがれシングぅぅぅ!」
頭に血の上ったアルベルトという人の形をした暴風が去った後の部屋の中で、ルーは一人たたずんでいた。
「全く……傍迷惑な奴らだ」
「一般人に被害が出る前に、何か手を考えておくか……自警団の関係者としては」
全く、俺もお節介になったな。そう思いつつ、ルーはまず部屋を片づけながら、すぐにでもやってくるであろう大家になんと言い訳すべきか、と考え始めた。